daidoji721の記事一覧

  1. 大道寺小三郎伝 第5章「種をまく人」1

    弘前相互銀行  1959(昭和34)年 大道寺小三郎の結婚式での唐牛敏世と、母の大道寺志げ(弘前相互銀行倶楽部/現・藤田記念庭園) 大道寺小三郎にとっては、気のすすまないまま弘前相互銀行の管理課に配属されて8カ月が過ぎようとしていた。 同銀行は前身であった「弘前無尽会社」のと…

  2. 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」5

    高田屋嘉兵衛  昭和33年に建立された高田屋嘉兵衛像(函館市) そんな失意のなかにあったある日、本屋で科学雑誌を立ち読みしていると、鉄に代わる新素材として鉄より固く強いというチタンが注目されおり、最新鋭の戦闘機などに使われ、砂鉄に多く含まれているという記事を見た。 戦後10年…

  3. 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」4

    洞爺丸  1954(昭和29)年9月26日、台風15号の動向をうかがっていた青函連絡船の洞爺丸は、予定より遅れて午後6時39分、空が少しばかり明るくなったときに函館港を出た。わずか20分後、函館港外に500メートルほど出たあたりで状況は急変した。向かい風と大波に阻まれ、メインアンカーを左右に…

  4. 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」3

    北洋博覧会  「北洋博」の宣伝カーとキャンペーンガール(デシタル「函館市史」函館市中央図書館所蔵) 1954(昭和29)年、函館市は北洋漁業再開を契機に「北洋博覧会」を開催することになった。~その夏は札幌で国体も開かれる予定だった。 ある日、市役所勤めをしていた友人から相談を…

  5. 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」2

    司法試験  東北大学新聞部の仲間と。左端が大道寺小三郎。左から4番目は法学部長の中川善之助。 一方、1950(昭和25)年の夏から、米ソ冷戦の序曲となる朝鮮戦争が激しさを増してゆく。 連合国軍総司令官マッカーサーは、東京を拠点として韓国側の指揮にあたり、仙台では米軍の後方基地…

  6. 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」1

    戦争の傷跡  竹内俊吉(1900~86) 東奥日報社を経て政治家に。青森放送会長、青森県知事などを務めた。長男の黎一(1926~)は弘高時代に大道寺より1期上級で、のちに政治家となり科学技術庁長官などを務める。 敗戦によって銃弾に倒れる恐怖はなくなったが、父の死をはじめ、大道寺小…

  7. 大道寺小三郎伝 第3章「動乱」4

    自治会活動  昭和21年、大八車を引いて下宿先に引っ越しする小三郎(右端) 自治会活動は授業料改定(値上)を契機に、学校側との闘争を中心とした活動組織に変貌していった。喰うや喰わずの毎日ではあったが、コンパと称してドブロクを酌み交わす友人と過ごす日々は楽しく、瞬く間に時は過ぎ去っ…

  8. 大道寺小三郎伝 第3章「動乱」3

    昭和20年の敗戦   空襲警報は日常茶飯事となった昭和20年の7月、小三郎は1年ぶりで函館の実家に帰省し、友人宅へ遊びに行ってお昼をご馳走になっていた。 そのときだった。いきなり警報が鳴り響いたかと思うやいなや、100機を超えるグラマン戦闘機が函館上空を襲い、バリバリと屋根を打ち抜く機銃…

  9. 大道寺小三郎伝 第3章「動乱」2

    高校1年生の初冬  講堂とその屋根の上から小三郎が撮った岩木山    高校1年生の初冬――。いよいよ本土が空襲を受ける可能性が高まった。 小三郎らの昭和19年入学組には、八戸・島守地区での勤労動員の命が下った。 作業は軍人4、5人に生徒4、5人単位でひと組が構成され、…

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