自治会活動
昭和21年、大八車を引いて下宿先に引っ越しする小三郎(右端)
自治会活動は授業料改定(値上)を契機に、学校側との闘争を中心とした活動組織に変貌していった。喰うや喰わずの毎日ではあったが、コンパと称してドブロクを酌み交わす友人と過ごす日々は楽しく、瞬く間に時は過ぎ去っていった。復員してきた鈴木清順(後の映画監督)と同期となり、すぐ下には弟の鈴木健二(元NHKアナウンサー)が寮長として生徒の食料確保に奔走していた。
その年、朝日新聞社主催による第1回朝日討論会が開催され、周到な準備をしてきた小三郎は3人1組の主将として参加した。のちに東大法学部へと進む新谷正、秋田県で1、2を競う建設会社の社長となる北林照助と組んだ。
108校の大学と高専がすべて参加する盛況ぶりで、あらかじめ用意された設問に対して「私はこの立場をとる」と申し込み、全国7地区に分けての予備選を経たチームが本選となる全国大会へと進むことができる。
「現在、西欧諸国で使われているユリウス暦は今後も採用すべきか、あるいは新たに合理的な世界暦を作るべきか」、「日本経済は通貨安定が先か、生産力増強が先か」など10題ほどが用意された。
最初の討論は、お互いのキャプテンがそれぞれ7分間で自説の正当性を主張し、その後3分間ずつ5回にわたり相手側に反論するという方式だ。小三郎率いる弘前高校は東北予選を1等で勝ち抜くほどの実力を示した。そして大阪で予定された本選への出場資格を得るのだが、出席日数の足りない小三郎は学校側から本選出場の許可が出ず、その年はやむなく断念せざるを得なかった。
数々の交渉ごとの現場をくぐり抜けて鍛え上げられた話術に加え、23歳から25歳にかけて大学へ進学後も訓練をつづけた3年間に、トータル30題にも及ぶ勉強が、その後の小三郎の人生における基礎となり知識の源泉となった。
討論会を機に親友となった、秀才の誉れ高き新谷は土手町で質屋を営んでいた川嶋家に下宿をしていた。その彼を通じて当家の長男、川嶋康司と知り合う。
貧乏生活をしていた寮生にとって、唯一の財産とえいば冬物と夏物をしまい込んでおくための柳で編んだ行李ひとつだけであった。あるとき小三郎は川嶋に依頼して、行李を質に入れ20円を調達した。そして仕送りがあると利子を付けて行李を取り戻す。何回か繰り返すうちに川嶋の父から「2階の康司の部屋に置いておくだけでいいから」と言われた。
さすがにその言葉に甘えることはできなかったが、小三郎は質という便利な金融システムを知り、それはたちまち寮生の間に広まって川嶋の部屋は寮生の行李であふれていた。
川嶋康司の父は、将来医者を目指し理乙に通う一人息子の教育環境を考慮した結果、好影響を与えるような、勤勉で品行に優れ、頭脳明晰な新谷正を2階にあったもうひと部屋に無料で住まわせたのであった。のちの新谷は東京大学法学部を首席で卒業した。
小三郎が出入りしたのにはわけがあった。川嶋家にはドブロクがつねに置いてあったのだ。3歳年上の小三郎は酒、タバコを川嶋に教えた。
ある日、朝日討論会の実力を知った川嶋の父が小三郎を呼び出した。
「露天商組合の親分をしてるFを知ってるかな。彼はこのままにしておくにはもったいないほどの男だ。そこでだ、県会に上げてやりたいのだが、ついては応援弁士を引き受けてはくれまいか、大道寺君」
選挙の応援演説など、毛頭考えたこともなかった小三郎は返答に困った。
「あのネ、当選したら1日につき5円あげる」
後ろに控えていた康司は、「断れ」とばかりに小三郎の尻を思いっきりつねった。
が、時すでに遅し。小三郎は翌日から街頭に立ってマイクを握り叫んでいた。
「……Fさんは中央に太い人脈をもっていますから、県会に送り出せば、必ずやこの地域の皆様のお力になれます……」
どこかで聞いたような、まことしやかな文句を羅列した。
夜 はFの口利きもあって、当選後の日当を充てこんだ小三郎は、川嶋康司を呼び出しては毎晩のように繁華街へとくり出して豪遊したのである。
そうして選挙が前日に迫り、街頭演説も白熱していた矢先であった。
弘前公園のそばにある時敏小学校前に陣取ってマイクを握ったときだった。急にろれつが回らなくなったFは、マイクを握ったまま、ばったりと倒れ、永遠に帰らぬ人となってしまったのだ。
死因は脳溢血。残ったのは、約3週間分の日当を充てに毎晩のように呑み歩いたツケだけだった。
第4章に続く・・・
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