大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」2

司法試験
 

東北大学新聞部の仲間と。左端が大道寺小三郎。左から4番目は法学部長の中川善之助。

 一方、1950(昭和25)年の夏から、米ソ冷戦の序曲となる朝鮮戦争が激しさを増してゆく。
 連合国軍総司令官マッカーサーは、東京を拠点として韓国側の指揮にあたり、仙台では米軍の後方基地として多数の負傷兵を受け入れ治療した。また、戦地から冷凍状態にされた死体を、米国本土への軍用輸送機へと積み替える作業にアルバイトで狩りだされた学生も大勢いた。
 大学新聞の検閲も厳しくなってきたそのころ、大学の自治会や教授の間に広まりつつあった共産主義化を恐れた米国は、GHQ教育顧問イールズの反共講演を各地で繰り広げ、その阻止を狙った学生らと軋轢を生じていた。東北大学にもその情報はいち早く流れた。1950(昭和25)年5月、イールズの反共講演に対し、反撃行動をとった新聞部員の中には停学や戒告処分となったものもいた。幸いN嬢の父で法学部長の仲介によって、重い処分は免れた。
 そのような騒ぎをよそに、小三郎は長兄が経営する北海道日高の牧場に向かい司法試験を受ける準備にとりかかっていた。
 動機はいたって単純なものであった。
 新聞部の仲間とN嬢の邸宅に出入りしているうちに、ふたりは相思相愛の仲となった。
 N教授宅へ通いつめる小三郎は、愛犬の散歩から、出入りする学生の応対などまるで書生のように振る舞っていた。
 N嬢の父である教授はほとんど授業に顔を出さない小三郎を、よく思うわけがない。小三郎は教授に交際を打ち明け、将来を口にすることなどできるはずもなかった。そこで名誉挽回とばかりに、それまでの3年間という人生航路の遅れを、司法試験に合格して一気に取り戻して結婚を認めてもらおうと考えたのである。
 ――2カ月も本格的に勉強すれば通るだろう……そして弁護士になって政界に打って出ようか……」
 竹内の言葉も脳裏に焼きついていた。
 それまでの付け焼き刃の試験勉強が、すっかり身に付いてしまっていた小三郎はそうタカを括った。
 第1回目の昭和27年の試験は、同じ新聞部員の同僚2人も受けたが、もろとも不合格。やがて卒業はしたものの、司法試験浪人を決めた小三郎は、心に鞭打って合格するまではN嬢に会うまいと誓い、実家を拠点に函館郊外の旅館などに籠もっては悶々とした日々を送った。
 その間、会いたさが募るふたりはラブレターを交換し合うことで心を繋いだ。
 同僚の2人は猛勉強の甲斐あって、翌年めでたく合格を果たした。小三郎だけは受からなかった。
 眼下には、大好きな海が広がっていた。
 実家の病院に転がり込むように名ばかりの事務長となったが、表面上、自宅では甘えが出るからと理由をつけ、一緒に勉強しようと決めた中学時代からの友人、横田道雄の家に下宿した。場所はハリスト教会のある二十間坂の上にあった。見晴らしのいい2階の部屋から、函館湾を行き来する船に気をそそられ、ときには魚を釣り、夜はその家のおじいさんの北洋漁業に出稼ぎに行った昔話を肴に、毎晩のように焼酎を飲み、時間だけが過ぎていった。
 
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