daidoji721の記事一覧

  1. 大道寺小三郎伝 第5章「種をまく人」4

    極東ロシア~死去  大道寺小三郎は滅びゆく和船とその建造の技術を後世に伝えようと、地元周辺はもとより世界中から船を集めていた。文部省がそのコレクションの貴重価値を認めたことから、「(財)みちのく北方漁船博物館/現・船の科学館(青森市)」が誕生した。その集大成である国内最大級の北前型弁才船…

  2. 大道寺小三郎伝 第5章「種をまく人」3

    みちのく銀行誕生  1966(昭和41)年、函館の大道寺病院を継いだ小次郎が48歳で亡くなり、その後まもなく義兄の杉本信夫も急死したため翌年に閉院となった。 1970(昭和45)年、大阪で万国博覧会の開催が決まったころ、大道寺は着実に業務をこなし手腕を振るって業務部長になっていた。取引先…

  3. 大道寺小三郎伝 第5章「種をまく人」2

    物上代位  弘前相互銀行時代(手前中央は唐牛敏世、後ろで立っているのが大道寺) 大道寺の弘前高校時代の身元引受人でもあった唐牛との縁は、その後もつづくことになったが、本人は嫌々業務をこなしていた。半年もしないうちに、唐牛の命により主任に昇格してすぐのことであった。 北海道の根…

  4. 大道寺小三郎伝 第5章「種をまく人」1

    弘前相互銀行  1959(昭和34)年 大道寺小三郎の結婚式での唐牛敏世と、母の大道寺志げ(弘前相互銀行倶楽部/現・藤田記念庭園) 大道寺小三郎にとっては、気のすすまないまま弘前相互銀行の管理課に配属されて8カ月が過ぎようとしていた。 同銀行は前身であった「弘前無尽会社」のと…

  5. 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」5

    高田屋嘉兵衛  昭和33年に建立された高田屋嘉兵衛像(函館市) そんな失意のなかにあったある日、本屋で科学雑誌を立ち読みしていると、鉄に代わる新素材として鉄より固く強いというチタンが注目されおり、最新鋭の戦闘機などに使われ、砂鉄に多く含まれているという記事を見た。 戦後10年…

  6. 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」4

    洞爺丸  1954(昭和29)年9月26日、台風15号の動向をうかがっていた青函連絡船の洞爺丸は、予定より遅れて午後6時39分、空が少しばかり明るくなったときに函館港を出た。わずか20分後、函館港外に500メートルほど出たあたりで状況は急変した。向かい風と大波に阻まれ、メインアンカーを左右に…

  7. 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」3

    北洋博覧会  「北洋博」の宣伝カーとキャンペーンガール(デシタル「函館市史」函館市中央図書館所蔵) 1954(昭和29)年、函館市は北洋漁業再開を契機に「北洋博覧会」を開催することになった。~その夏は札幌で国体も開かれる予定だった。 ある日、市役所勤めをしていた友人から相談を…

  8. 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」2

    司法試験  東北大学新聞部の仲間と。左端が大道寺小三郎。左から4番目は法学部長の中川善之助。 一方、1950(昭和25)年の夏から、米ソ冷戦の序曲となる朝鮮戦争が激しさを増してゆく。 連合国軍総司令官マッカーサーは、東京を拠点として韓国側の指揮にあたり、仙台では米軍の後方基地…

  9. 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」1

    戦争の傷跡  竹内俊吉(1900~86) 東奥日報社を経て政治家に。青森放送会長、青森県知事などを務めた。長男の黎一(1926~)は弘高時代に大道寺より1期上級で、のちに政治家となり科学技術庁長官などを務める。 敗戦によって銃弾に倒れる恐怖はなくなったが、父の死をはじめ、大道寺小…

PAGE TOP