昭和20年の敗戦
空襲警報は日常茶飯事となった昭和20年の7月、小三郎は1年ぶりで函館の実家に帰省し、友人宅へ遊びに行ってお昼をご馳走になっていた。
そのときだった。いきなり警報が鳴り響いたかと思うやいなや、100機を超えるグラマン戦闘機が函館上空を襲い、バリバリと屋根を打ち抜く機銃掃射とともに爆弾を落として行ったのだ。ハルゼイ提督率いるタスクホースである。約1時間の空襲により旅客、貨物を問わず青函連絡船が全滅した。
翌日、同機動部隊は太平洋三陸沖を南下し、小三郎らが数日前までいた日立製作所を襲った。夕刻には戦艦アイオワを旗艦とするハルゼイ提督の米艦隊が日立沖に現れ、艦砲射撃がいっせいにはじまった。攻撃は熾烈を極め夜半まで執拗につづいたが、寮生は山側に避難して全員無傷だった。
数日後にはB29の大編隊による空襲が行われ、最大1トン爆弾の前には防空壕が用をなさず多数の犠牲者を出した。
小三郎はすべてを観察していた。風向きに逆らい空爆することによって視界を遮る爆煙を避けられる。米軍は風向きを利用して爆撃を加えていることを知ると、非常時にもかかわらず感心した。
艦砲射撃と空爆によって、日立製作所は全滅した。
よって工場へ行く必要もなくなった小三郎は仲間を誘い、寮から海岸へ出て泳いだりして異様なひと夏を過ごした。
8月14日、小三郎ら寮生全員は日立多賀から青森へ向かう列車に乗車した。突然の転勤命令である。行き先は青森県下北半島にある海軍基地、大湊(現・むつ市)であった軍需工場である。
列車の中は地方へと向かう空襲で焼け出された都会の人々や、怪我などで包帯をした乗客などで混雑していた。
居合わせた将校が特殊爆弾の話題を振りまいていた。
「広島と長崎の特殊爆弾は、あれは我が軍も所有しておる。米軍の本格上陸に備えて使うことにしている」
翌15日、約20時間をかけて青森駅に着いたときには午前11時半を回っていた。
駅前は7月28日の空襲で八甲田連峰まで見渡せる焼け野原となって、小三郎らは玉音放送を待った。
放送が始まったが、内容を把握できた生徒は少なかった。しかし、日立の壊滅的状況を知っている小三郎らは、はっきりと敗戦を理解した。
見上げた空は、抜けるような青さであった。
脱力感とともに安堵感が、そして芯から湧きでてくる開放感に小三郎の心は躍った。
生徒同士、顔を見合わせるとその表情には、それまでのあらゆるストレスがはじけ飛んだような明るさが甦っていた。
10月には学校の授業が再開した。
相も変わらず物資や食料は不足していた。
授業中にもかかわらず、多くの生徒は学生服の懐から脇の下に手を入れシラミを取っては手でつぶしていた。
その月の下旬、函館の実家に災難が降りかかった。
父、小市の数多い往診を可能にしていたのは、1937年型のゼネラルモーターズ製直列8気筒のオールズモビルの力によるところが大きい。函館随一の車とあってか、敗戦後、米軍物資調達係の目にとまり、対価なしの接収となったのである。
小市はやむなく重病の患者に限定して、自転車に切り替えて往診をつづけたが、11月初めのみぞれの降る午後に往診から帰った後に風邪を引いてしまった。
さらに病院の入院室から発疹チフスが発症し、小市、志げ、看護婦が次々と感染してしまった。母の志げと看護婦は持ちこたえられたのだが、風邪から肺炎をこじらせていた小市は持ちこたえるだけの体力がなかった。
11月12日、享年62歳。あっという間の死であった。
大道寺病院はしばらく閉院した。やがて、ビルマから復員した長女静子の夫で内科医を担当し、隣に住んでいた杉本信夫と、少し遅れてシベリア抑留から帰還した次男の小次郎が外科を担当し、病院は再開された。
昭和19年の寮祭における食堂の飾り付け(左端が小三郎)
北溟寮にて寮祭体育大会用の賞状書きをする小三郎
函館と青森は港町のせいか、シラミによって伝染する発疹チフスが大流行し相当数の人々が命を落としたため、米軍は青函連絡船の乗降客全員にDDTの粉末を振りかけた。
数ヵ月もすると日本中にあったシラミが忽然と消え失せた。
子どものころから見慣れたシラミが身辺から消え去ったことに、多くの国民はなぜ戦争に負けたのかを悟った。
昭和21年度に入り、大道寺小三郎は創設された自治会の委員長に推挙された。日立での一件以来、すっかりリーダー格に収まった小三郎は、とある討論会に血道を上げているうちに出席日数が足りず落第を余儀なくされた。
理科系教科の一夜漬けは効かない、しかも同じ学年を2度にわたりドッペル(留年)となれば放校処分になる。兄の小次郎が帰還したことによって、病院のあとを継ぐ必要性もなくなったこともあって、心機一転、小三郎は昭和23年に文科へと転向を決断した。
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