大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」4

洞爺丸
 
 1954(昭和29)年9月26日、台風15号の動向をうかがっていた青函連絡船の洞爺丸は、予定より遅れて午後6時39分、空が少しばかり明るくなったときに函館港を出た。わずか20分後、函館港外に500メートルほど出たあたりで状況は急変した。向かい風と大波に阻まれ、メインアンカーを左右に下ろして風がおさまるのを待った。
 しかし、風は勢いを増し、錨を引きずりながら船体は陸の方へ流されはじめた。すべてのボイラーに火を入れ最大のプロペラ回転数で抵抗を試みたが、貨車を積み込む開口部から浸水、ボイラーは止まり、瞬く間に陸の方へ流され、七重浜で座礁するかに見えた。
 午後10時43分、とてつもないエネルギーで襲いかかった横波を喰らった船体は転覆した。
 函館は午後から夜にかけて強風が吹き荒れ、最大風速は60メートルにも達し、停電が相次いだ。
 翌朝、鉱石ラジオに耳をあて、状況を案じていた小三郎のもとへ電話がかかってきた。
 「大変だ大道寺。取材で浜から洞爺丸の現場まで行きたい。なんとか船を出してもらえないか」
 東北大で同期の松田二郎であった。松田はNHK記者として、青森放送局へ配属されていたのだ。青森から羊蹄丸で27日、函館に着いたばかりである。函館局にはデスク一人が留守番で記者たちは青森県の酸ヶ湯温泉に慰安旅行中であった。
 小三郎の遊覧船も沈没していたが、なんとかタグボートが手配できた。
 28日は朝から快晴だった。小三郎はベタ凪の海上を松田記者ひとりを乗せ、NHKの専用船となったボートは七重浜沖の洞爺丸に向かった。
 到着するやいなや、真っ赤な船底を空に向けていた洞爺丸に飛び移った小三郎は、船底を棒で叩いて生存者の有無を確かめた。松田記者もあとに続いたが、乾いた金属音がむなしく響くだけだった。
 それから数日間、小三郎は地獄絵図を見るような思いで救出活動を見守った。見守った。兄の小次郎は医師として不眠不休体制で救護にあたった。
 若い母親が幼子をしっかりと抱きしめたまま遺体で引き揚げられた。離そうとしても離れないその姿に小三郎の涙は止まらなかった。
 乗員乗客1,334人のうち1,175人が亡くなり、函館港内でも青函貨物船の5隻と、あわせて1,430人もの命が奪われ、海難史上、英国の豪華客船タイタニック号に次ぐ大惨事となった。
 
 どこまでもつづく道路をあるいていると、どこからとなく友人の声が聞こえる――。
 「大道寺君、お前なにしてるんだ」
 「試験を受けているんだよ」
 そう答えるものの、先が見えない。
 どうしよう、どうしよう……
 不安と恐怖にさいなまれ、小三郎の目が覚めた。
 人は皆、天職をもって分担しながら生きているが、自分はその天職を得られないまま一生を終える。
――世の中に必要のない人間……。  小三郎は、ときどき道のない同じ夢にうなされ、眠れぬ日が多くなっていった。
 勉強をしていない罪悪感と、不運をなげく自分がいた。
 昭和30年、31年の司法試験にも受からず、次第に勉学に身が入らなくなっていった。
 
 東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる―― (「一握の砂」石川啄木)
 函館を愛した啄木の詩が心に沁みた。
 
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