大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」5

高田屋嘉兵衛
 

昭和33年に建立された高田屋嘉兵衛像(函館市)

 そんな失意のなかにあったある日、本屋で科学雑誌を立ち読みしていると、鉄に代わる新素材として鉄より固く強いというチタンが注目されおり、最新鋭の戦闘機などに使われ、砂鉄に多く含まれているという記事を見た。
 戦後10年ほどの日本は、鉄鉱石を輸入する外貨が不足していたため、太平洋沿岸を中心に砂山に含まれている砂鉄を採集していたが、まだ手付かずだったのが小三郎の生まれた日高地方の海岸であった。
 なんでも日高の砂山の砂鉄は不純物が多く、製鉄には適さないという。
 直感でその不純物こそが、いま注目のチタンではないかと閃いた小三郎は、一攫千金を胸底に秘め、さっそく翌日から北海道の太平洋岸に沿って歩き始めた。
 100メートルごとに2,3グラム、サンプル用の砂鉄を採集し、夜は安宿に泊まりながら、さすらい歩きつづけた。
 函館山の麓、蓬来町に高田屋嘉兵衛の旧宅跡を通る高田屋通りがある。1769(明和6)年、淡路島、現在の兵庫県津名郡五色町に百姓の子供として生まれた嘉兵衛は28歳のときに蝦夷(北海道)に新たな可能性を見出し、箱館(函館)を本拠地として海運業を始めた。幕府にその才能を認められて北方領土の航路を拓く命を受け、択捉島、根室に港を開き巨万の富を得る。その富は蓄財だけではなく、道路の改修、漁業の開発、植林など、函館発展のために使われた。1806(文化3)年の箱館大火の際には、被災者の救援に尽力し、復興のために井戸とポンプを町に寄贈した。
 また、南下政策を進めていたロシア軍のゴローニン海軍中将が、1811年に国後島で幕府に捕縛され抑留されるといういわゆる「ゴローニン事件」が起きたときである。ロシア軍は翌年、報復措置として国後沖で嘉兵衛らを拿捕し、日本との関係は険悪のものとなった。嘉兵衛は獄中から必死で説得し、嘉兵衛との交換条件でゴローニンが開放され一大事を免れた。
 日露友好の祖ともいうべき高田屋嘉兵衛は北方航路を拓き、函館の経済に大きく貢献した。ときに小三郎は、父から聞いた歴史ロマンを思い出しては、消えかけそうになる北国での青春の炎をかき立てていたのである。
 しかし結局、チタンの一山を当てることもかなわなかった。
 5年にわたり司法試験を落ちていたせいか、すでにN嬢への手紙も出しにくくなっていた。
 そうこうしているうちに、N嬢が結婚したと風の頼りで聞いてからというもの、すべてがむなしく思えて、パチンコや競輪に明け暮れたこともあった。
 失意のどん底にあった32歳のときだった。法律に本腰を入れようと東京に出ていた小三郎に、代議士かに返り咲いた竹内俊吉から久しぶりに飯を喰おうと声がかかった。
 「法律の勉強をしているという話しだが、32歳の面をぶらさげて六法全書を夜な夜な開くようじゃ先が知れてる。人生には限りがある。もうやめろ。俺は青森に小さな放送局をもっているが、どうだ?」
 寝耳に水といった感じで、即答をしなかった小三郎に竹内は強引に詰め寄った。
 「今晩、汽車に乗るからお前も一緒に乗れ」
 青森市の竹内の家に1泊し、翌日は放送局とガス会社を案内された。
 どれもバラックに毛の生えたような所ばかりで、就職などする気も起こらなかった。
 そんな逃げの一手を決め込んだ小三郎が、最後に連れて行かれたのは弘前相互銀行の社長をしていた唐牛敏世のところだった。
 唐牛と大道寺家とは小市の時代に縁があった。しかも高校時代の身元引受人(保証人)でもあった唐牛(※大道寺氏の自伝による)の手前もあり、それ以上抗弁することはできなかった。
 確固たる職のないまま、33歳をむかえようとしている小三郎の窮状を案じた友人川嶋が、竹内に相談した結果である。
 管理課の債権回収係に配属されたが、年長でコネで途中入社した男が歓迎されるはずもない。半年が過ぎても小三郎はまったく仕事に身が入らず、毎晩飲んだくれては近いうちに辞めようとも考えていた。
 
第5章に続く・・・
 
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