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  • 大道寺小三郎伝 第5章「種をまく人」1

    弘前相互銀行
     

    1959(昭和34)年 大道寺小三郎の結婚式での唐牛敏世と、母の大道寺志げ(弘前相互銀行倶楽部/現・藤田記念庭園)

     大道寺小三郎にとっては、気のすすまないまま弘前相互銀行の管理課に配属されて8カ月が過ぎようとしていた。
     同銀行は前身であった「弘前無尽会社」のときに、東北地方で初のエレベーターを備えた「かくは宮川デパート」のある一番町の坂を上りきったところに、昭和元年、鉄筋コンクリート3階建のビルを構えた。いまも当時のまま、弘前市に現存する最古の鉄筋コンクリートの商業ビルとして使われている。しかし、戦後は相互銀行となって業務の拡大につれ、すぐにスペースが足りなくなり、同ビルからほど近い下土手町の「角み小路」に曲がる角にあった呉服屋を買い取って、1階を本店営業部、2階に管理課と検査課を置いた。
     管理課は課長以下12人体制で、主な業務は不良債権の管理回収である。当時の相互銀行は、旧国立系の普通銀行が貸せないような信用力の低い取引先が多く、競売、差し押さえなどの法的措置、またはそれらにともなう各支店に対する管理回収の指導、監督、命令など多忙を極めていた。
     社長であった唐牛敏世は、1879(明治12)年、黒石藩(弘前藩の分藩)の家老職を務めた家系に生まれた。地元での教員生活に飽きたらず、東京の明治法律専門学校(現・明治大学)に進むが、その後は東京から北海道へと放浪した。その間、コンブの等級を決める仕事に就いて、静内の漁業組合にいた時期に大道寺小市と知り合ったのである。
     田舎町ゆえ、教養のある唐牛は小市の話し相手として気に入られ、ほぼ毎晩のように夕食を共にするような間柄になった。
     その唐牛が静内から忽然と姿を消し、小市と再会するのは10年ほど経ってからの昭和3年のことであった。唐牛はその間、函館の水産業者を拠点に、ニシン漁の仕込みに必要な資金を融通し、漁が終わると金利分を乗せて回収する仕事に携わったり、商人宿を経営したりしたがどれも成功を見なかった。失意のどん底に喘いでいたあるとき、弘前へ行く機会があり、そこで「無尽」という金貸しの話を聞く。何十人かのグループで月々少額のお金を積み立て、ある程度貯まったらそのお金を欲しい人が借りる。借りた人は、利息相当分を加えて返し終わるまで払うというシステムだ。十分な資金力がなくとも、このやり方なら、自らの人脈や才覚で商うことができると確信した唐牛は、さっそく設立準備を行い、幼なじみで代議士の支援などによって、1924(大正13)年に弘前無尽会社を設立した。
     庶民の唯一の金融機関として、見る見るうちに急速な発展を遂げ、支配人、取締役、専務を経て40(昭和15)年に社長に就任。戦後は相互銀行法施行にともない、1951(昭和26)年に弘前相互銀行に転換しそのまま社長職に就いた。ときすでに79歳をむかえており、その後、1976(昭和51)年に青森市に本店のあった青和銀行との合併により、普通銀行へと転換した「みちのく銀行」の初代頭取に就任した時点では97歳。現役の頭取最高齢として各界から注目を浴びることになる。
     再会は偶然だった。父、小市がスイス留学から帰国後、生家のある山形へ報告へ行く途中の奥羽本線の車中であった。そしてまもなく、不義理の詫びにと津軽塗の小さなテーブルが贈られてきた。
     「400円が10年経って4円くらいのテーブルになった」 母、志げはそう言って揶揄したと、後年、大道寺小三郎の回想録に記されている。
     
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  • 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」5

    高田屋嘉兵衛
     

    昭和33年に建立された高田屋嘉兵衛像(函館市)

     そんな失意のなかにあったある日、本屋で科学雑誌を立ち読みしていると、鉄に代わる新素材として鉄より固く強いというチタンが注目されおり、最新鋭の戦闘機などに使われ、砂鉄に多く含まれているという記事を見た。
     戦後10年ほどの日本は、鉄鉱石を輸入する外貨が不足していたため、太平洋沿岸を中心に砂山に含まれている砂鉄を採集していたが、まだ手付かずだったのが小三郎の生まれた日高地方の海岸であった。
     なんでも日高の砂山の砂鉄は不純物が多く、製鉄には適さないという。
     直感でその不純物こそが、いま注目のチタンではないかと閃いた小三郎は、一攫千金を胸底に秘め、さっそく翌日から北海道の太平洋岸に沿って歩き始めた。
     100メートルごとに2,3グラム、サンプル用の砂鉄を採集し、夜は安宿に泊まりながら、さすらい歩きつづけた。
     函館山の麓、蓬来町に高田屋嘉兵衛の旧宅跡を通る高田屋通りがある。1769(明和6)年、淡路島、現在の兵庫県津名郡五色町に百姓の子供として生まれた嘉兵衛は28歳のときに蝦夷(北海道)に新たな可能性を見出し、箱館(函館)を本拠地として海運業を始めた。幕府にその才能を認められて北方領土の航路を拓く命を受け、択捉島、根室に港を開き巨万の富を得る。その富は蓄財だけではなく、道路の改修、漁業の開発、植林など、函館発展のために使われた。1806(文化3)年の箱館大火の際には、被災者の救援に尽力し、復興のために井戸とポンプを町に寄贈した。
     また、南下政策を進めていたロシア軍のゴローニン海軍中将が、1811年に国後島で幕府に捕縛され抑留されるといういわゆる「ゴローニン事件」が起きたときである。ロシア軍は翌年、報復措置として国後沖で嘉兵衛らを拿捕し、日本との関係は険悪のものとなった。嘉兵衛は獄中から必死で説得し、嘉兵衛との交換条件でゴローニンが開放され一大事を免れた。
     日露友好の祖ともいうべき高田屋嘉兵衛は北方航路を拓き、函館の経済に大きく貢献した。ときに小三郎は、父から聞いた歴史ロマンを思い出しては、消えかけそうになる北国での青春の炎をかき立てていたのである。
     しかし結局、チタンの一山を当てることもかなわなかった。
     5年にわたり司法試験を落ちていたせいか、すでにN嬢への手紙も出しにくくなっていた。
     そうこうしているうちに、N嬢が結婚したと風の頼りで聞いてからというもの、すべてがむなしく思えて、パチンコや競輪に明け暮れたこともあった。
     失意のどん底にあった32歳のときだった。法律に本腰を入れようと東京に出ていた小三郎に、代議士かに返り咲いた竹内俊吉から久しぶりに飯を喰おうと声がかかった。
     「法律の勉強をしているという話しだが、32歳の面をぶらさげて六法全書を夜な夜な開くようじゃ先が知れてる。人生には限りがある。もうやめろ。俺は青森に小さな放送局をもっているが、どうだ?」
     寝耳に水といった感じで、即答をしなかった小三郎に竹内は強引に詰め寄った。
     「今晩、汽車に乗るからお前も一緒に乗れ」
     青森市の竹内の家に1泊し、翌日は放送局とガス会社を案内された。
     どれもバラックに毛の生えたような所ばかりで、就職などする気も起こらなかった。
     そんな逃げの一手を決め込んだ小三郎が、最後に連れて行かれたのは弘前相互銀行の社長をしていた唐牛敏世のところだった。
     唐牛と大道寺家とは小市の時代に縁があった。しかも高校時代の身元引受人(保証人)でもあった唐牛(※大道寺氏の自伝による)の手前もあり、それ以上抗弁することはできなかった。
     確固たる職のないまま、33歳をむかえようとしている小三郎の窮状を案じた友人川嶋が、竹内に相談した結果である。
     管理課の債権回収係に配属されたが、年長でコネで途中入社した男が歓迎されるはずもない。半年が過ぎても小三郎はまったく仕事に身が入らず、毎晩飲んだくれては近いうちに辞めようとも考えていた。
     
    第5章に続く・・・
     
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  • 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」4

    洞爺丸
     
     1954(昭和29)年9月26日、台風15号の動向をうかがっていた青函連絡船の洞爺丸は、予定より遅れて午後6時39分、空が少しばかり明るくなったときに函館港を出た。わずか20分後、函館港外に500メートルほど出たあたりで状況は急変した。向かい風と大波に阻まれ、メインアンカーを左右に下ろして風がおさまるのを待った。
     しかし、風は勢いを増し、錨を引きずりながら船体は陸の方へ流されはじめた。すべてのボイラーに火を入れ最大のプロペラ回転数で抵抗を試みたが、貨車を積み込む開口部から浸水、ボイラーは止まり、瞬く間に陸の方へ流され、七重浜で座礁するかに見えた。
     午後10時43分、とてつもないエネルギーで襲いかかった横波を喰らった船体は転覆した。
     函館は午後から夜にかけて強風が吹き荒れ、最大風速は60メートルにも達し、停電が相次いだ。
     翌朝、鉱石ラジオに耳をあて、状況を案じていた小三郎のもとへ電話がかかってきた。
     「大変だ大道寺。取材で浜から洞爺丸の現場まで行きたい。なんとか船を出してもらえないか」
     東北大で同期の松田二郎であった。松田はNHK記者として、青森放送局へ配属されていたのだ。青森から羊蹄丸で27日、函館に着いたばかりである。函館局にはデスク一人が留守番で記者たちは青森県の酸ヶ湯温泉に慰安旅行中であった。
     小三郎の遊覧船も沈没していたが、なんとかタグボートが手配できた。
     28日は朝から快晴だった。小三郎はベタ凪の海上を松田記者ひとりを乗せ、NHKの専用船となったボートは七重浜沖の洞爺丸に向かった。
     到着するやいなや、真っ赤な船底を空に向けていた洞爺丸に飛び移った小三郎は、船底を棒で叩いて生存者の有無を確かめた。松田記者もあとに続いたが、乾いた金属音がむなしく響くだけだった。
     それから数日間、小三郎は地獄絵図を見るような思いで救出活動を見守った。見守った。兄の小次郎は医師として不眠不休体制で救護にあたった。
     若い母親が幼子をしっかりと抱きしめたまま遺体で引き揚げられた。離そうとしても離れないその姿に小三郎の涙は止まらなかった。
     乗員乗客1,334人のうち1,175人が亡くなり、函館港内でも青函貨物船の5隻と、あわせて1,430人もの命が奪われ、海難史上、英国の豪華客船タイタニック号に次ぐ大惨事となった。
     
     どこまでもつづく道路をあるいていると、どこからとなく友人の声が聞こえる――。
     「大道寺君、お前なにしてるんだ」
     「試験を受けているんだよ」
     そう答えるものの、先が見えない。
     どうしよう、どうしよう……
     不安と恐怖にさいなまれ、小三郎の目が覚めた。
     人は皆、天職をもって分担しながら生きているが、自分はその天職を得られないまま一生を終える。
    ――世の中に必要のない人間……。  小三郎は、ときどき道のない同じ夢にうなされ、眠れぬ日が多くなっていった。
     勉強をしていない罪悪感と、不運をなげく自分がいた。
     昭和30年、31年の司法試験にも受からず、次第に勉学に身が入らなくなっていった。
     
     東海の小島の磯の白砂に
     われ泣きぬれて
     蟹とたはむる―― (「一握の砂」石川啄木)
     函館を愛した啄木の詩が心に沁みた。
     
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  • 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」3

    北洋博覧会
     

    「北洋博」の宣伝カーとキャンペーンガール(デシタル「函館市史」函館市中央図書館所蔵)

     1954(昭和29)年、函館市は北洋漁業再開を契機に「北洋博覧会」を開催することになった。~その夏は札幌で国体も開かれる予定だった。
     ある日、市役所勤めをしていた友人から相談を持ちかけられた。
     「北洋博覧会をやるのはいいんだけれど、残念ながら港内の遊覧船がない。そこで船の好きなお前を見込んで頼みにきたんだ。遊覧船をやってくれないか」
     失敗続きで集中力が途切れていた小三郎は、渡りに舟とばかりに、一人合点して小躍りした。
     さっそく父が残した遺産のうち、札幌にある北海道大学附属病院の隣地約500坪を売却して資金に充てた。坪2000円の計100万円で函館の船具屋に売ったのだ。
     登記にあたり司法書士を訪ねたときだった。 「いやいや、バっカに安いもんでないかい。いまあの辺で坪1万円以下の土地はないよ」
     小三郎は、世間知らずを恥じて肩を落とした。
     そしてすぐさま造船所にかけあったところ、北洋の好景気の影響で100万円では新造船にはまったく足りないことがわかった。仕方なく中古を探して、ようやく見つかったのは日魯漁業で本船とキャッチャーボートとの連絡艇に使っていた全長8メートルほどの船だった。
     それを買い入れ、優雅な遊覧船に仕立てるために自動車用のA型フォードのエンジンにのせ換えたりと、3カ月ほどをかけて改造した結果、小三郎は遊覧船のオーナーにふさわしくメカニズムすべてを習得した。
     ところが、函館市から慫慂されたにもかかわらず、営業の許認可がなかなか下りなかった。
     海運局、函館水上警察署、青函連絡船、船舶管理局、函館港管理局……10カ所にも及ぶ機関をたらい回しにされたあげく、「○○がお受けすれば、当方もOKである」といった同じ結論に終始し数カ月が過ぎた。
     半ば諦めかけたころ、市役所のある人物から助言を得て一番偉そうな役人を行きつけのキャバレーに招待し、とことん接待をしたところ一挙に道が開けたのである。
     小三郎を船長に、横田と父の運転手をしていた沼澤の長男で、のちに小三郎の運転手となる沼澤静一の3人で運行することになった。
     7月10日、函館活性化の起爆剤と期待された「北洋漁業再開記念北海道大博覧会」が開かれた。総予算約3億円、函館公園、五稜郭公園を会場に8月31日まで延べ53日間、入場者数は目標の60万をはるかに超えた80万人となり成功裡に終わった。
     だが、遊覧船の客足は想像以上のものではなく、まもなく思わぬ終焉をむかえたのである。
     
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  • 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」2

    司法試験
     

    東北大学新聞部の仲間と。左端が大道寺小三郎。左から4番目は法学部長の中川善之助。

     一方、1950(昭和25)年の夏から、米ソ冷戦の序曲となる朝鮮戦争が激しさを増してゆく。
     連合国軍総司令官マッカーサーは、東京を拠点として韓国側の指揮にあたり、仙台では米軍の後方基地として多数の負傷兵を受け入れ治療した。また、戦地から冷凍状態にされた死体を、米国本土への軍用輸送機へと積み替える作業にアルバイトで狩りだされた学生も大勢いた。
     大学新聞の検閲も厳しくなってきたそのころ、大学の自治会や教授の間に広まりつつあった共産主義化を恐れた米国は、GHQ教育顧問イールズの反共講演を各地で繰り広げ、その阻止を狙った学生らと軋轢を生じていた。東北大学にもその情報はいち早く流れた。1950(昭和25)年5月、イールズの反共講演に対し、反撃行動をとった新聞部員の中には停学や戒告処分となったものもいた。幸いN嬢の父で法学部長の仲介によって、重い処分は免れた。
     そのような騒ぎをよそに、小三郎は長兄が経営する北海道日高の牧場に向かい司法試験を受ける準備にとりかかっていた。
     動機はいたって単純なものであった。
     新聞部の仲間とN嬢の邸宅に出入りしているうちに、ふたりは相思相愛の仲となった。
     N教授宅へ通いつめる小三郎は、愛犬の散歩から、出入りする学生の応対などまるで書生のように振る舞っていた。
     N嬢の父である教授はほとんど授業に顔を出さない小三郎を、よく思うわけがない。小三郎は教授に交際を打ち明け、将来を口にすることなどできるはずもなかった。そこで名誉挽回とばかりに、それまでの3年間という人生航路の遅れを、司法試験に合格して一気に取り戻して結婚を認めてもらおうと考えたのである。
     ――2カ月も本格的に勉強すれば通るだろう……そして弁護士になって政界に打って出ようか……」
     竹内の言葉も脳裏に焼きついていた。
     それまでの付け焼き刃の試験勉強が、すっかり身に付いてしまっていた小三郎はそうタカを括った。
     第1回目の昭和27年の試験は、同じ新聞部員の同僚2人も受けたが、もろとも不合格。やがて卒業はしたものの、司法試験浪人を決めた小三郎は、心に鞭打って合格するまではN嬢に会うまいと誓い、実家を拠点に函館郊外の旅館などに籠もっては悶々とした日々を送った。
     その間、会いたさが募るふたりはラブレターを交換し合うことで心を繋いだ。
     同僚の2人は猛勉強の甲斐あって、翌年めでたく合格を果たした。小三郎だけは受からなかった。
     眼下には、大好きな海が広がっていた。
     実家の病院に転がり込むように名ばかりの事務長となったが、表面上、自宅では甘えが出るからと理由をつけ、一緒に勉強しようと決めた中学時代からの友人、横田道雄の家に下宿した。場所はハリスト教会のある二十間坂の上にあった。見晴らしのいい2階の部屋から、函館湾を行き来する船に気をそそられ、ときには魚を釣り、夜はその家のおじいさんの北洋漁業に出稼ぎに行った昔話を肴に、毎晩のように焼酎を飲み、時間だけが過ぎていった。
     
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  • 大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」1

    戦争の傷跡
     

    竹内俊吉(1900~86) 東奥日報社を経て政治家に。青森放送会長、青森県知事などを務めた。長男の黎一(1926~)は弘高時代に大道寺より1期上級で、のちに政治家となり科学技術庁長官などを務める。

     敗戦によって銃弾に倒れる恐怖はなくなったが、父の死をはじめ、大道寺小三郎の周囲でも戦争の傷跡は深く残っていた。
     さらに戦中、戦後と想像を絶する粗末な食事と重労働によって、結核に冒され死んでゆく人々が大勢いたのである。
     弘前高校では、時流にのった教育者の身勝手さが横行した。
     「鉄道は軍事優先だから、きみたちは故郷に帰ってはならない」
     敗戦の前年、冬休みを前に校長はそう命令を下した。
     文部省も禁止までは指示していなかった。増幅した事なかれ主義の命令に、自治会委員長の小三郎をはじめ多くの寮生が強い反発を示した。
     「空襲などでいつ死ぬかもわからないのです。だから両親と会いたいものもいます。なんとか許可をください」
     学校側と1度だけは話し合いの場をもったが、2度目は「だめなものはだめだ」と聞く耳さえもたなかった。実際には、戦局が悪化するにつれ旅客列車はガラ空き状態だった。
     小三郎は、敗戦を機にあれもこれもみな戦争の犠牲者なのだと理解しようとつとめたが、醜いものへの怒りや不快感の矛先は自然、自治会活動へと向けられ、真実を希求する若き魂は朝日討論会へと捧げられてゆく。
     1948(昭和23)年、高校3年になった小三郎は討論会に備えた勉学に本腰を入れはじめた。片っ端から関係する本を読みあさろうにも敗戦直後のため適当な参考書が見つからなかった。そこで青森県に在住する識者の門を叩くことになった。そのなかの一人に、県下随一の博覧強記で知られ、のちに大蔵政務次官、青森県知事となる竹内俊吉がいた。竹内は地方紙の取締役から県議、さらには戦時中に国会議員となり、戦後は公職を追放され浪人の身であった。
     小三郎は函館の実家と行き来するたびに、青森の竹内家に立ち寄っては政治や経済の話しを聞いた。
    ある日、竹内はこう言った。
     「お前なぁ、東京だとやりにくいから、どこか田舎の大学にでも入って県会議員にでもなれよ。そのキャリアをもって青森に帰って来い。そうしたら僕の地盤をやる」
     自治会活動や討論会でめきめきと論戦力をつけていた小三郎は、次第に政治の世界に興味を抱くようになっていた。
     「無能教授追放運動」と称してストライキを実施し、戦時下とはいえ生徒に対し非情な命令を下した校長の追放に成功した。さらに全学連の結成大会にも出席するほど自治会活動に熱をあげていた。
     そのあげくが出席日数不足の落第である。
     翌昭和24年の春、小三郎は通常3年間のところ、留年を2度経験して5年間在学した弘前高校をあとに仙台の東北大学法学部に入学した。
     すでに、共産主義が幅をきかせていた自治会運動に興味が失せていた小三郎は、函中の1年先輩にあたり、弘高から先に東北大学の経済学部に進み、新聞部の編集長をしていた田沼修二がいる新聞部に入った。 当時の大学新聞部の評価は高く、言論の自由という名の下に戦後の民主化を牽引していた。同時に入部したのは、東京出身で経済学部の松田二郎であった。松田とは親が医師という共通点からか気が合った。長い休みには函館の実家へ連れて行きともに遊んだ。
     高校時代と違い、出席簿のない大学生活は講義などそっちのけであった。
     午前10時ごろになると一番丁の門から入り、学生部の奥にある新聞部の部屋へと直行した。15人ほどの部員はそこで昼飯を喰い、原稿を書いたり、雑談を交わして過ごす。部内にも右派と左派がいて、口論の末にケンカとなって雑誌が飛び交うなどは日常茶飯事であった。
     夜はもっぱら三越前の屋台で、カストリやドブロクを飲んでは泥酔する日々を過ごしていた。
     その新聞部にはふたりの女性がいた。そのうちの文学部のN嬢に、小三郎は秘かな想いを寄せた。
     小三郎の下宿は仙台駅から近い花京院にあり、彼女の邸宅は歩いてすぐの場所にあった。
     N嬢の父は法学部教授で新聞部の担当部長をしていたが、開放的な人柄で学生を自宅に招いては酒やウイスキーを振舞ってくれた。
     
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  • 大道寺小三郎伝 第3章「動乱」4

    自治会活動
     

    昭和21年、大八車を引いて下宿先に引っ越しする小三郎(右端)

     自治会活動は授業料改定(値上)を契機に、学校側との闘争を中心とした活動組織に変貌していった。喰うや喰わずの毎日ではあったが、コンパと称してドブロクを酌み交わす友人と過ごす日々は楽しく、瞬く間に時は過ぎ去っていった。復員してきた鈴木清順(後の映画監督)と同期となり、すぐ下には弟の鈴木健二(元NHKアナウンサー)が寮長として生徒の食料確保に奔走していた。
     その年、朝日新聞社主催による第1回朝日討論会が開催され、周到な準備をしてきた小三郎は3人1組の主将として参加した。のちに東大法学部へと進む新谷正、秋田県で1、2を競う建設会社の社長となる北林照助と組んだ。
     108校の大学と高専がすべて参加する盛況ぶりで、あらかじめ用意された設問に対して「私はこの立場をとる」と申し込み、全国7地区に分けての予備選を経たチームが本選となる全国大会へと進むことができる。
     「現在、西欧諸国で使われているユリウス暦は今後も採用すべきか、あるいは新たに合理的な世界暦を作るべきか」、「日本経済は通貨安定が先か、生産力増強が先か」など10題ほどが用意された。
     最初の討論は、お互いのキャプテンがそれぞれ7分間で自説の正当性を主張し、その後3分間ずつ5回にわたり相手側に反論するという方式だ。小三郎率いる弘前高校は東北予選を1等で勝ち抜くほどの実力を示した。そして大阪で予定された本選への出場資格を得るのだが、出席日数の足りない小三郎は学校側から本選出場の許可が出ず、その年はやむなく断念せざるを得なかった。
     数々の交渉ごとの現場をくぐり抜けて鍛え上げられた話術に加え、23歳から25歳にかけて大学へ進学後も訓練をつづけた3年間に、トータル30題にも及ぶ勉強が、その後の小三郎の人生における基礎となり知識の源泉となった。
     討論会を機に親友となった、秀才の誉れ高き新谷は土手町で質屋を営んでいた川嶋家に下宿をしていた。その彼を通じて当家の長男、川嶋康司と知り合う。
     貧乏生活をしていた寮生にとって、唯一の財産とえいば冬物と夏物をしまい込んでおくための柳で編んだ行李ひとつだけであった。あるとき小三郎は川嶋に依頼して、行李を質に入れ20円を調達した。そして仕送りがあると利子を付けて行李を取り戻す。何回か繰り返すうちに川嶋の父から「2階の康司の部屋に置いておくだけでいいから」と言われた。
     さすがにその言葉に甘えることはできなかったが、小三郎は質という便利な金融システムを知り、それはたちまち寮生の間に広まって川嶋の部屋は寮生の行李であふれていた。
     川嶋康司の父は、将来医者を目指し理乙に通う一人息子の教育環境を考慮した結果、好影響を与えるような、勤勉で品行に優れ、頭脳明晰な新谷正を2階にあったもうひと部屋に無料で住まわせたのであった。のちの新谷は東京大学法学部を首席で卒業した。
     小三郎が出入りしたのにはわけがあった。川嶋家にはドブロクがつねに置いてあったのだ。3歳年上の小三郎は酒、タバコを川嶋に教えた。
     ある日、朝日討論会の実力を知った川嶋の父が小三郎を呼び出した。
     「露天商組合の親分をしてるFを知ってるかな。彼はこのままにしておくにはもったいないほどの男だ。そこでだ、県会に上げてやりたいのだが、ついては応援弁士を引き受けてはくれまいか、大道寺君」
     選挙の応援演説など、毛頭考えたこともなかった小三郎は返答に困った。
     「あのネ、当選したら1日につき5円あげる」
     後ろに控えていた康司は、「断れ」とばかりに小三郎の尻を思いっきりつねった。
     が、時すでに遅し。小三郎は翌日から街頭に立ってマイクを握り叫んでいた。
     「……Fさんは中央に太い人脈をもっていますから、県会に送り出せば、必ずやこの地域の皆様のお力になれます……」
     どこかで聞いたような、まことしやかな文句を羅列した。
    夜 はFの口利きもあって、当選後の日当を充てこんだ小三郎は、川嶋康司を呼び出しては毎晩のように繁華街へとくり出して豪遊したのである。
     そうして選挙が前日に迫り、街頭演説も白熱していた矢先であった。
     弘前公園のそばにある時敏小学校前に陣取ってマイクを握ったときだった。急にろれつが回らなくなったFは、マイクを握ったまま、ばったりと倒れ、永遠に帰らぬ人となってしまったのだ。
     死因は脳溢血。残ったのは、約3週間分の日当を充てに毎晩のように呑み歩いたツケだけだった。
     
    第4章に続く・・・
     
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  • 大道寺小三郎伝 第3章「動乱」3

    昭和20年の敗戦
      
     空襲警報は日常茶飯事となった昭和20年の7月、小三郎は1年ぶりで函館の実家に帰省し、友人宅へ遊びに行ってお昼をご馳走になっていた。
     そのときだった。いきなり警報が鳴り響いたかと思うやいなや、100機を超えるグラマン戦闘機が函館上空を襲い、バリバリと屋根を打ち抜く機銃掃射とともに爆弾を落として行ったのだ。ハルゼイ提督率いるタスクホースである。約1時間の空襲により旅客、貨物を問わず青函連絡船が全滅した。
     翌日、同機動部隊は太平洋三陸沖を南下し、小三郎らが数日前までいた日立製作所を襲った。夕刻には戦艦アイオワを旗艦とするハルゼイ提督の米艦隊が日立沖に現れ、艦砲射撃がいっせいにはじまった。攻撃は熾烈を極め夜半まで執拗につづいたが、寮生は山側に避難して全員無傷だった。
     数日後にはB29の大編隊による空襲が行われ、最大1トン爆弾の前には防空壕が用をなさず多数の犠牲者を出した。
     小三郎はすべてを観察していた。風向きに逆らい空爆することによって視界を遮る爆煙を避けられる。米軍は風向きを利用して爆撃を加えていることを知ると、非常時にもかかわらず感心した。
     艦砲射撃と空爆によって、日立製作所は全滅した。
     よって工場へ行く必要もなくなった小三郎は仲間を誘い、寮から海岸へ出て泳いだりして異様なひと夏を過ごした。
     8月14日、小三郎ら寮生全員は日立多賀から青森へ向かう列車に乗車した。突然の転勤命令である。行き先は青森県下北半島にある海軍基地、大湊(現・むつ市)であった軍需工場である。
     列車の中は地方へと向かう空襲で焼け出された都会の人々や、怪我などで包帯をした乗客などで混雑していた。
     居合わせた将校が特殊爆弾の話題を振りまいていた。
     「広島と長崎の特殊爆弾は、あれは我が軍も所有しておる。米軍の本格上陸に備えて使うことにしている」
     翌15日、約20時間をかけて青森駅に着いたときには午前11時半を回っていた。
     駅前は7月28日の空襲で八甲田連峰まで見渡せる焼け野原となって、小三郎らは玉音放送を待った。
     放送が始まったが、内容を把握できた生徒は少なかった。しかし、日立の壊滅的状況を知っている小三郎らは、はっきりと敗戦を理解した。
     見上げた空は、抜けるような青さであった。
     脱力感とともに安堵感が、そして芯から湧きでてくる開放感に小三郎の心は躍った。
     生徒同士、顔を見合わせるとその表情には、それまでのあらゆるストレスがはじけ飛んだような明るさが甦っていた。
     10月には学校の授業が再開した。
     相も変わらず物資や食料は不足していた。
     授業中にもかかわらず、多くの生徒は学生服の懐から脇の下に手を入れシラミを取っては手でつぶしていた。
     その月の下旬、函館の実家に災難が降りかかった。
     父、小市の数多い往診を可能にしていたのは、1937年型のゼネラルモーターズ製直列8気筒のオールズモビルの力によるところが大きい。函館随一の車とあってか、敗戦後、米軍物資調達係の目にとまり、対価なしの接収となったのである。
     小市はやむなく重病の患者に限定して、自転車に切り替えて往診をつづけたが、11月初めのみぞれの降る午後に往診から帰った後に風邪を引いてしまった。
     さらに病院の入院室から発疹チフスが発症し、小市、志げ、看護婦が次々と感染してしまった。母の志げと看護婦は持ちこたえられたのだが、風邪から肺炎をこじらせていた小市は持ちこたえるだけの体力がなかった。
     11月12日、享年62歳。あっという間の死であった。
     大道寺病院はしばらく閉院した。やがて、ビルマから復員した長女静子の夫で内科医を担当し、隣に住んでいた杉本信夫と、少し遅れてシベリア抑留から帰還した次男の小次郎が外科を担当し、病院は再開された。
     

    昭和19年の寮祭における食堂の飾り付け(左端が小三郎)
     

    北溟寮にて寮祭体育大会用の賞状書きをする小三郎
     
     函館と青森は港町のせいか、シラミによって伝染する発疹チフスが大流行し相当数の人々が命を落としたため、米軍は青函連絡船の乗降客全員にDDTの粉末を振りかけた。
     数ヵ月もすると日本中にあったシラミが忽然と消え失せた。
     子どものころから見慣れたシラミが身辺から消え去ったことに、多くの国民はなぜ戦争に負けたのかを悟った。
     昭和21年度に入り、大道寺小三郎は創設された自治会の委員長に推挙された。日立での一件以来、すっかりリーダー格に収まった小三郎は、とある討論会に血道を上げているうちに出席日数が足りず落第を余儀なくされた。
     理科系教科の一夜漬けは効かない、しかも同じ学年を2度にわたりドッペル(留年)となれば放校処分になる。兄の小次郎が帰還したことによって、病院のあとを継ぐ必要性もなくなったこともあって、心機一転、小三郎は昭和23年に文科へと転向を決断した。
     
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  • 大道寺小三郎伝 第3章「動乱」2

    高校1年生の初冬
     

    講堂とその屋根の上から小三郎が撮った岩木山
     
     
     高校1年生の初冬――。いよいよ本土が空襲を受ける可能性が高まった。
     小三郎らの昭和19年入学組には、八戸・島守地区での勤労動員の命が下った。
     作業は軍人4、5人に生徒4、5人単位でひと組が構成され、米軍の上陸を迎え撃つという名目で、海岸線と併行に伸びた小高い丘状の山中に要塞となる洞穴を多数穿つというものだった。直径3メートルほどのトンネル状の穴を掘るため、生徒らはもっぱら単純労働に向けられ、岩盤に発破を仕掛け、砕け散った石片(ズリ)をモッコで壕外に運ぶ役目を負わされた。慣れない労働から担ぎ棒が肩にくい込み、皮膚が擦りむけて血まみれになった。しかし、10日も経つとなかば麻痺状態となり次第に痛みもやわらぐのであった。
     生徒は分散して民家に泊まらされた。小三郎は畳敷きの部屋もない農家をはじめて見た。家具らしいものも見当たらない。便所は戸外にあり、入口にはムシロが下げられ、ほか三方は粗板で囲われ、金隠しのない穴が真ん中に空けてあった。中にはトイレ用紙の代わりに木を薄く割った長さ10センチほどの板切れが置いてあり、用が済んだらその板切れでそぎ取り、使用後は肥料用にと別の箱に入れるといった仕組みだ。
     同じ青森県でも、津軽と南部の生活の違いを身をもって知った。
     「俺ンところに来てみろ」
     隣の宿舎の連中の家に行って見ると、便所の形は同じだが問題は用を足した後は荒縄で擦って拭くのだという。
     食事はといえば、兵隊方式の「メシ上げ」といわれる炊飯所が一カ所あって、当番がバケツなどの容れ物を持って宿舎に割り当てられた分を受け取りに行く。雑穀だらけのめしと味噌汁にタクアンだけで、育ち盛りの生徒は日に日に痩せこけていった。
     島守での生活は翌年の3月まで続き、学校へ戻ってはきたものの形式だけの進級試験が行われ、昭和19年入学の230人は一人の落第生もなく全員2年生に進級した。


    3人組(後ろが小三郎)
     
     ところが、新年度早々またも勤労動員の命が下る。次の行き先は日本最大の軍需工場であった日立製作所(茨城県)だ。その規模たるや海岸線と平行に約6キロにわたり工場群が続き、従業員数は4万人を超えていた。
     徴兵年令は20歳からであったが、戦況の悪化とともに引き下げられ、小三郎が高校生になった年には満17歳以上の者とすると同時に、17歳未満の志願も可とする根こそぎ動員が行われた。卒業まで猶予が認められていたのは高等学校の理科系と師範学校生であったが、兵役に就かないすべての学生には勤労動員が義務付けられていった。
     小三郎の2学年は、つい先日まで旧制第一高等学校の生徒がいたという日立社員の独身寮(多賀寮)が割り当てられた。
     食事はアルミの皿にご飯と麦、それに芋が混じったものが薄く盛られ、朝飯にも不十分な量でありながら昼飯兼用を強いられた。
     2クラスに編成されていた理乙組は、主に旋盤を製造する工場に回され、小三郎のグループは魚雷運搬車の車輪軸に使われる直径10センチほどのベアリング(軸受)作りの部署に配属された。しかし、想像以上に極度の精密技術を要する仕事で、数時間かけて作っても品質検査ではほとんどが不合格となる始末であった。
    5月1日、小三郎は20歳を迎えたが戦局は混沌としていた。現場では熟練工が次々と徴兵されていき、その結果できた製品の8割方が無駄となっていった。
     労働力不足は日を追って深刻になり、女学校生までもかりだされた。勤務時間は朝6時から夕方6時までの1日12時間。さらに4時間残業すると夜食が支給される。精米度の低いコーリャン飯は、ほとんど消化されぬまま排出されるような代物だったが、四六時中空腹をかかえた生徒にとって食後の満腹感にはかえられなかった。
     そんな栄養状態であったから、夜は各担当の旋盤だけが回っていて作業員のほとんどは、周辺に隠れては倒れ込むように眠り込んでしまう。毎晩、数千坪もの大工場の何百台もの旋盤機だけが、音を立てて回っているだけの頽廃した空気のなかに、日本の戦闘行為の無謀さを小三郎は感じとっていた。
     
     ある日、小三郎は相撲部と野球部の部長を引き連れて町はずれのタバコ屋へと向かった。
     出てきた痩せこけた貧相な中年の男に、小三郎はこう切り出した。
     「つかぬことをお伺いするが、ここに第一高等学校の生徒全員のタバコの配給登録がしてあると耳にしたが……」
     脇には巨体の相撲部長がニタリとほくそ笑み、野球部長は鋭い目つきで睨みつける。店から上がりかまちに正座して応対した男は見る見るうちに顔から血の気が引いた。
     「いやね、ぼくらはこの何カ月分かのタバコがどこに行ったのかを咎める気持ちはないんだ」
     小三郎は落ち着き払った物言いで迫った。
     配給統制違反は重罪であった。
     米、酒、タバコなど生活必需品はすべて配給制であり、大部分の寮生は喫煙習慣があったが、日立に来てからはなぜか差し止められていた。その配給を受けるためには移動証明書が必要だったことから、小三郎は一計を案じたのであった。
     

    昭和20年の卒業式。講堂を背景に「アインスタイン」(訛り:本来「アインシュタイン」)とあだ名で呼ばれていた写真屋が撮影するシーンをその後ろから小三郎が撮った。
     
     小三郎らはあまりの粗末な寮の食事の処遇に、嫌気をさした前任の第一高等学校生らが、あらゆるコネを伝って処遇改善を求め他部署へ移ったのだと考えた。混乱の最中だから、一高生の分は日立多賀のタバコ屋にそのままあるに違いないとふんだのである。
     目の前の男の膝は震え、恐怖のあまり顔は引きつっていた。
     「うちの学生も何かの都合でタバコ移動証明書を持ってこられなくて困っているんだ。どうだろう、一高生の分をうちに回してくれればそれでいいんだが」
     男は、額を畳にこすりつけるように伏して言った。
     「ありがとうございます。なんとか穏便にお取りはからいください。タバコは配給日に寮までお届けします」
     配給本数は1人につき1日5本。買値は10本入れ1箱につき15~20銭程度。小三郎は、一高生の喫煙年齢に達した百数十人分のタバコを一手に獲得することができた。工場内でも工員らが1本あたり50銭から1円で融通しあっていたほどで、ひと月の下宿代が15~20円の時代にあってタバコは貴重品の最たるものであった。
     小三郎は、タバコ獲得作戦の成果を全寮生に告げるやいなや拍手喝采をあびた。
     「ただし、世の中は平等でなければならない。諸君のなかには5本を欲する人もいれば、一服程度でよいという人もいる。その必要に応じて買値で配給したいと思う」
     そう皆の前で宣言し、A、B、Cの3段階ランクを設定し、5:3:1の配給割合を決めた。小三郎らと仲のよい順で色分けをした結果、自然、小三郎を頂点とした支配権が確立していったのである。
     一方、生徒は日立製作所の幹部宅に夕食に呼ばれる機会が1、2度あった。
     そこには目にすることも口にすることもない牛肉や、飲みきれないほどの清酒があり、信じがたい世界があった。飢えている生徒らは無我夢中で頬張った。だが、その瞬間はありがたく感じたが、普段の粗食に戻ると魔法はすぐにとけて、あまりの落差から日立製作所そのものに激しい反感を抱いていった。
     
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