第5回 大道寺会
平成24年(2012年)7月21日(土)
弘前パークホテル13階「ステラ」にて
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大道寺小三郎伝 第5章「種をまく人」4
極東ロシア~死去

大道寺小三郎は滅びゆく和船とその建造の技術を後世に伝えようと、地元周辺はもとより世界中から船を集めていた。文部省がそのコレクションの貴重価値を認めたことから、「(財)みちのく北方漁船博物館/現・船の科学館(青森市)」が誕生した。その集大成である国内最大級の北前型弁才船の船卸し(進水式)は、大道寺が亡くなった3カ月後(2005年11月10日)に行われた。1992(平成4)年のある夜――。
青森市花園の自宅で就寝していた大道寺小三郎に、右翼を名乗る暴漢に突然襲われるという事件に遭った。
大道寺は寝室から直接、犬の散歩ができるよう常に鍵を開けていて、敵はそこから侵入した。90年代に入り、みちのく銀行の海外進出が本格化するなかで、北方四島問題が硬直状態にあるロシアとの交流事業推進への嫌がらせであった。
前年、自ら心臓の不整脈からペースメーカーを入れていた大道寺は、予期せぬ格闘から装置の位置がずれたと思い病院で調べてもらった。その結果、ペースメーカーに異常は見られなかったが、肺の影を指摘され、肺を調べているうちに肝臓にも影が認められたのである。いっぺんに二つのがんが見つかり、7月には国立がんセンターに入院し、8月に1週間ほどずらして肺と肝臓がん摘出手術を受けた。
翌1993年3月、ロシア、中国などへ向けた海外への足がかりとなる人事が決まり、内示のあった数人の若い社員らが青森本店に呼ばれた。
頭取自ら会議室のホワイトボードに、カムチャツカ半島から日本海を挟んだ朝鮮半島、中国大陸、インドシナ半島までの地図を描き、約2時間を費やして「君たちを送る意義について」と題し講義をした。
「ロシア、中国、上海はすごく近い。これからは環日本海経済圏の上海、ウラジオストクなどを中心に栄える……」
そしてなぜ、地方銀行が海外進出を図る必要があるかを説明した。
「これまでは中央(政治)から国費をもらってきたが、そう遠くない時期に地方の面倒はみてくれなくなるだろう。経済はボーダレスの時代に突入し、青森の企業でも中国やロシアに行って商売をしなければならない時代が来る。だがいまは情報が乏しく商売ができるかどうかもわからない。だから銀行が道筋をつけて、確実に商売のできる環境を作る。まして、いつもの銀行でお金の取引(送受)ができれば安心だ。その偵察隊なんだ、君たちは」
何人にも頼ることなく、地方は地方同士、隣人として助け合いながら自立し、未来を切り拓く気概を説いた。
折しもバブル経済がはじけ、青森では大口融資先が無かったことから、みちのく銀行は東京の大手商社に融資をして手痛い目に遭っていた。また、つぶれないという銀行神話が、北海道拓殖銀行の倒産を機に大きく揺らいだ。地方銀行は、その地域で堅実な商いをするという他行を尻目に、大道寺小三郎は積極的に打って出たのである。
その根底には、あの無責任な戦争を引き起こし、戦後は1960年代後半から90年代にかけて行われた「むつ小川原開発」という国策の頓挫によって犠牲を強いられてきた怒りがあった。数兆円規模の税金では足りず、決まり事のように各行に巨額の融資が割り当てられ、破綻後は銀行に尻拭いさせたことへの反発である。みちのく銀行は約30億の債権放棄をせざるを得なかった。
大道寺は生来の気性もあったが、不合理なことに対しては相手が誰であれ、もの申すという姿勢を貫いた。よりよい社会を築くため、それは人間としての未来への責任感の現れであった。
ロシアを中心に着々と医療、文化、教育分野の慈善事業を通じて種を蒔いていたものが少しずつ実りはじめていた。90年代半ばには、極東ロシアにおいて、日本の首相の名は知らずとも「みちのく」「ダイドウジ」の名は市民に広く浸透していた。

1992(平成4)年 ゴルバチョフ元ソ連大統領の歓迎祝宴にて
1995年4月には念願のハバロフスク‐青森間の国際定期航空便が就航した。98年の金融危機以降、「国債は返せない」として、世界的に信用を失ったロシアの首都に、翌99年7月、邦銀では初の現地法人みちのく銀行(モスクワ)本店が開設された。つづく2002年にはユジノサハリンスク、03年はハバロフスク支店が開設され、新興国として急速に経済成長を遂げてゆくにつれ、一般住宅ローンなどで業績は堅調な伸びを示していった。
しかし、大道寺の身体は病魔と闘う日々であった。1996年の春、慢性骨髄白血病と診断されていたのだ。投薬治療により一命はとりとめたが、薬の副作用が足の浮腫という形で現れ、その痛みを和らげようと強い鎮痛剤を注射し、そのショックから2004年5月に緊急入院したのである。

1999年12月 初孫に会う(ボストンにて)
翌2005年の春、初孫と面会したときには笑顔を見せていたが、やがて意識が薄らぎ、7月21日をもって帰らぬ人となった。大道寺小三郎、80年と2カ月の生涯であった。
その潰えぬ夢は、世代を超えた種となって人々の心に根づき、いつしか芽が出て花を咲かせ、実を結ぶときが来るに違いない。
了
※主な参考資料:「追憶の彼方に‐大道寺小三郎氏の世界‐」畠山隆一著(2008年)
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大道寺小三郎伝 第5章「種をまく人」3
みちのく銀行誕生
1966(昭和41)年、函館の大道寺病院を継いだ小次郎が48歳で亡くなり、その後まもなく義兄の杉本信夫も急死したため翌年に閉院となった。
1970(昭和45)年、大阪で万国博覧会の開催が決まったころ、大道寺は着実に業務をこなし手腕を振るって業務部長になっていた。取引先を募って万博の団体ツアーを組もうと企画し、月々の定期積立を考案した。キャッチフレーズは〝月々千円で万博を見よう!〟であった。旅行業務は専門会社に委託し、売り出しから数カ月で1万6,000人の定期預金者を獲得し大ヒットとなった。
1972(昭和47)年、病床にあった母、志げが85年の生涯を閉じた。大道寺小三郎47歳の秋のことである。
やがて取締役となった大道寺だが、そのころになると仕事上超えることのできない壁にぶち当たっていた。
弘高時代の同期が医師となり、開業する際に融資の機会を得ようとお願いにあがるのだが、相互銀行法の制約があるために社会的信用はあまり高くなかった。たとえば、大企業への融資は、総額の20パーセントという制約も業績の足かせとなっていた。各県とも旧国立銀行の流れをくむ地方銀行が最大の金融機関としての地盤を築いており、青森県では青森銀行がその地位にあった。
「お前とは付き合ってもいいが、相互銀行とは取引するなというのが親の遺言だから勘弁してくれ……」
普通銀行への移行――。
それは唐牛社長にとっても積年の夢であり大きな課題であった。
水面下での合併話はあった。

どんな分野にも精通していた知識の源泉は読書。旅先でも欠かさず1週間に4、5冊のペースで読破していた。

1974年から乗った愛車「トヨタ・マークⅡ」青森市に本社のある青和銀行である。だがその当時、青和は不良債権の発生から、全国で唯一の大蔵省管理銀行となっていて弘前相互銀行内には反対意見が根強かった。
しかし、1969(昭和48)年の夏には合併話は決定され、唐牛は承認を得るべく仙台の東北財務局長へ報告した後、全国相互銀行協会会長のところへ挨拶に伺ったのだが、その後思わぬ抵抗に遭う。
「弘前相銀ごときが普銀転換するのなら、上位10行くらいを単独で普銀転換させてくれ」
その会長は弘前の動きに乗じて大蔵省にねじ込んだのだった。大蔵省としは、全国の相銀がいっせいに普銀転換を図れば、中小企業対策に影響がでることを危惧していたのだ。
大道寺は翌年、東京支店長を命ぜられた。そして、すでに90歳をこえていた唐牛は月1回、陳情のため上京。その唐牛のおもとをし、大道寺は通訳兼代弁者としての役割を果たした。
一方、依然として合併に強く反対する行内の勢力は労働組合を中心にくすぶっていたが、事あるごとに大道寺は強い姿勢でのぞんだ。
大道寺は高校、大学時代のつてを頼り、田中角栄、福田赳夫、大平正芳ほか、大蔵官僚出身の参議院議員の鳩山威一郎、その秘書を務め後に大蔵大臣となった藤井裕久、森嘉朗など大物政治家との親交を深めていった。
なおかつ、合併によって店舗を拡大せず、逆に削減するという案を持ち出し唐牛の了承を得た。縮小を前提にすれば、ドミノ式に普銀転換したい他行の動きを牽制でき、大蔵省も納得すると読んだのである。
また、金融専門紙『ニッキン』は1975(昭和50)年に合併転換を推奨するキャンペーンを行い、全相互銀行と地方銀行のトップにアンケートを実施し、大多数が賛成といった内容を掲載したことも行政当局に安心感を与えていった。
1976(昭和51)年3月、大道寺は本部の取締役総合企画部長に就いて合併業務の詰めの作業に尽力した。そうして迎えた同年10月1日、ついに青和銀行との合併が実現し、資本金28億円、預金量4,175億円、従業員数2,159人と、青森銀行と双肩を並べる規模の「みちのく銀行」がようやく誕生したのである。
表面的には対等合併としたが、青和の約2.5倍の資本比率で初代頭取には唐牛敏世が就任し、中身は普銀をのみ込むといった形での異例ともいえる転換であった。公募から選考した行名は日本の銀行では初のひらがな表記とし、スローガンは唐牛の経営理念を受け、大道寺の発案による「家庭の銀行」とした。
97歳の頭取として全国の経済人から注目された唐牛だったが、1979年(昭和53)年1月、99年の波瀾万丈の生涯を現役のまま終えた。
2代目は葛西清美が86(昭和61)年まで務め、後に「みちのく銀行中興の祖」と称えられる大道寺小三郎が、3代目頭取として61歳で就任した。
以降、会長職を含め2005年までの19年間にわたりトップの座に君臨するのである。その間、県庁職員の給与振り込み獲得作戦などが功を奏して、預金量では永遠に越せないと目されていた青森銀行を抜き、低迷していた株価も上がり飛躍的に業績を伸ばしていった。 通常、第一地方銀行に分類される青森銀行は、昭和22年に全国地方銀行協会が発足した時点で業績は飛躍的に伸びていった。対して、平成4年の相互銀行廃止にともない相互銀行から普通銀行に転換したのが第二地方銀行とされ、平成22年4月時点では、第一が64、第二は43行。みちのく銀行は、すでに16年前にその地位を自ら獲得し、第一に追いつけ追い越せと勢いづいていた。
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大道寺小三郎伝 第5章「種をまく人」2
物上代位

弘前相互銀行時代(手前中央は唐牛敏世、後ろで立っているのが大道寺)大道寺の弘前高校時代の身元引受人でもあった唐牛との縁は、その後もつづくことになったが、本人は嫌々業務をこなしていた。半年もしないうちに、唐牛の命により主任に昇格してすぐのことであった。
北海道の根室港を本拠地とする漁船が港内で沈没した。銀行は船主に約3,000万円を貸し付けるにあたり一番抵当権を設定していたことから、保険金が下りることによって未収などは想定していなかった。
ところが、数日して裁判所から船主が所属する漁業組合が保険金を差し押さえたという通知が舞い込んだ。 船主は漁業組合からも3,000万円の融資を受けていたのだ。
「やられた!」と、幹部だれもがそう思った。
当時、大卒の公務員初任給はおよそ1万円。3,000万を現在の価値に換算すると、10億近い金額であり、地方の相互銀行の不良債権としては多大な損失となる。
法律に精通していた唐牛社長ですらあきらめかけていたとき、大道寺はふっと民法の「物上代位」を思い出した。つまり、船である「物」に抵当権があり、それが沈んでなくなった場合、その「物」に代わり発生する債権である保険金に抵当権が及ぶという規定だ。物の上に代位するという条項によって、抵当権が消滅しなければ、一番抵当権のある銀行は保険金に対しても優先権を有しているという解釈である。
書棚の隅に忘れかけていた六法全書を再びめくった大道寺は、ひとりほくそ笑んだ。
さっそく、直属の上司に回収を申し入れた。
「先に差し押さえられたら無理だな」
一般的な商習慣から、理解を得られなかった。そこで直接、唐牛社長にその旨を訴えた。
「この件、なんとか自分にやらせてください」
唐牛社長も半信半疑であったが、なんとか了承を得た大道寺は、さっそく翌日に直轄の旭川地方裁判所へと向かった。
二月の旭川は零下30度、吐く息さえ凍った。書類を提出して判事に掛け合った。
「趣旨はわかったが、船が確実に沈んだ証拠がない」
大道寺は、あらかじめ北海道新聞の記事を資料として用意していた。
「新聞記事では〝沈んだ〟とは断定できないんだよ、法的には。船が沈んだと確定して初めて保険金請求権が発生するわけです。確固たる証拠資料があれば取り扱えるんだがねえ……」
そこで大道寺は、札幌の北海道新聞社本社の編集局長に面会を求めた。アポなしのため2時間ほど待たされたが会ってくれた。
「君、北海道新聞はうそを書いたことはない。わが社の記事はすべて真実だ。だから、特定の記事についてわざわざ真実だとは書けるわけがない」
編集局長の名言の前に、二の句が継げなかった。
大道寺は、それでもあきらめきれずに今度は沈没現場へ行き漁業組合を訪ねたのである。先手を打った組合長は、上機嫌で大道寺を迎え入れた。
「組合長さん、うちはいろいろ手を打ちましたが今回の件は、おたくさまの勝ちですね」
「いやぁ、世の中というのは何事も迅速に勝るものはないですな。お気の毒ですが……」
大道寺が帰途につこうと腰を上げた。
「私はこれで会社に帰ります。社長に怒られると思うと憂鬱です。組合長さんは港内で沈むところを見られたそうですが〝完全に沈没した〟という一筆をいただけますか。帰ってから社長に引き上げてなんとかしろと責められても困るので……」
「そんなことでよければ」
しょんぼりした大道寺に同情した組合長は、さらさらと書いた。
それを手にした大道寺は、しめたとばかりに旭川へと引き返したのである。
だれもが不可能だとあきらめていた回収に成功した大道寺は、行内で一目を置かれる存在となった。

1960(昭和35)年
長女と入浴する大道寺小三郎家族を連れてのドライブが好きで、大好きな海辺のほかに流星群を見るために山へ行ったりした。
――法律とは、当事者となるお互いが不利益とならないよう条文化した常識の集大成である。
法律が飲みこめずに長い間苦しめられたが、なぜかこの件を契機に閃いたものがあり、大道寺は丸暗記に固執していた愚かさに気づいた。たとえば、貸付の際、契約書が交わされ、問題が起きれば訴訟法が適用される。貸し付けた側の債権者を保護し、また取られる側の債務者も保護する建前からなる条文は、権利と義務においてお互いが不利益を被らないよう想定している。条文だけでは煩雑なように思われるが、実際の事柄を有機的に当てはめてみてわかったのである。
昨日まで辞めようと考えていた大道寺とは、打って変わって仕事におもしろさを感じていた。
弘前に就職してからというもの、弘高時代の川嶋康司とは再び飲み仲間となり、彼の紹介で小川博子と出会い、交際は急速に深まった。
務めてから約1年後の1959(昭和34)年、唐牛夫妻を仲人に弘前相互倶楽部(現・藤田記念庭園)にて親戚縁者や行員を中心に約100人を招待した披露宴が催された。
新婚生活は市役所に近い場所の小さな一軒家を借りて始まったのだが、三日とあけずに部下を引き連れては宴会を催す日々であった。やがて函館の友人、横山道雄が転がり込んできたのである。
管理職とは名ばかりで、当時の薄給ではそうそう飲み屋へ通うほどの余裕はない。途切れることのない酒飲み客のために、妻、博子は松森町で歯科医院を営む実家へと何度も足を運んだ。
やがて1960(昭和35)年に長女が、62年に次女が生まれた。日本は高度経済成長の真っ只中にあった。
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