ミッドウェー海戦以降

現在の弘前大学の場所にあった旧制・弘前高等学校
1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦以降、戦況は次第に深刻な状況に追い込まれていく。
開戦直後は浮かれていたが、アジア全域に拡がった戦線を維持できなくなるばかりか各地で敗退が始まっていった。ナベカマにいたるまですべて金属物の供出がはじまり、食料確保にと空地は農園になり札幌では大通り公園まで畑と化した。
巷では軍歌「ラバウル小唄」「同期の桜」などが流行していた。
大道寺小三郎が旧制・弘前高等学校に入学したころには全寮制であった。ただし木造2階建、各部屋は6畳一間に定員2人。コンクリート製の火鉢があるだけの粗末なつくりであった。
「ハラへったなぁ」
「アタックするか?」
周囲はリンゴ園に囲まれていた。生徒が食べるだけのドロボウ行為が大目に見てもらえたのは、地域のエリート校としてはもちろん、全国から成績優秀な将来を嘱望された若者が集まってきていたからだ。

現在の入学時に大道寺小三郎が写した南寮生
弘前という街は津軽藩主を失ってからというもの、明治以降はリンゴ以外にこれといった産業がなかった。そこへ1万人規模を擁する第八師団が設置されたことにより、第二師団のある仙台以北では最大規模の軍都としての様相を呈していった。他所からやってきた軍人と同様、弘高生は精気を失っていた街にとってありがたい存在であった。夜な夜な代官町、土手町十文字から富田方面にかけての飲食店は繁盛し、軍人や学生の宴会が繰り広げられていた。
だが、物資の不足は急速にやってきた。食料だけではなく寮生活のあらゆる面にも色濃く影響が出はじめた。第一が便所紙だ。用を足すたびに障子紙が剥がされてゆくものだから、寮の建具はあっという間に骨だけになってしまった。
小三郎は、函館の父に宛て近況報告をかねた1通のハガキを出した。
その数日後――。
小三郎は弘前の、小市は函館の憲兵隊に呼ばれ事情聴取の上叱責される。
――東条の乱暴な政策、無能な愚政、ただちに東条は政権の座を降りるべきだ……。
したためたハガキの文面が通信検閲に引っかかったのである。
数日後、小三郎は父に詫びた。
「当たり前のことを書いて怒られたんだから……相手が悪いんだ。気にすることはない」
父はそういって慰めた。
小市は物量による戦争数学について説いていた。それは第一次世界大戦後にヨーロッパで確立されたもので、小市は開戦当初から日本の旗色の悪さを指摘していた。函館の憲兵隊長を前に小市はこう言い放った。
「こんな事で呼び出すとは何事だ! 子どもたちですら先行きを案じている重大局面にあって、つまらん事に君たちは時間を割いている暇があるのかね。やるべきことはほかにあるだろう」
長年にわたり函館の警察医の嘱託を受けており、それなりの立場があった。
「規則ですから、ご理解下さい。時節柄、あまり面倒なことにはしたくはありませんので」
半ば脅しともとれる発言に、小市は引き下がるどころか憲兵隊の官僚制を非難した。
絶対国防圏を定め、大部隊をもってマリアナ諸島を死守せよと発令した東条内閣は、サイパン島周辺の守備を増強するも6月のマリアナ沖海戦の敗北につづき、7月のサイパン戦では3万もの人々が玉砕するという惨憺たる結果となった。
そしてこの検閲事件が終わらないうちに、戦争を遂行した東条英機内閣は総辞職に追い込まれたのである。
目次へ戻る
ブログ
-
大道寺小三郎伝 第3章「動乱」1
-
大道寺小三郎伝 第2章「北の大地」5
旧制函中時代
当時、函館は人口22万人を超え、東北以北では最大の町だった。小学校の最終学年の6年生になり、小三郎は旧制の函館中学の入試を受けたのだが、こともあろうに口頭試問の席で係官の先生と口論となり烈火のごとく怒らせてしまった。そのあげくに小三郎の主張が間違いであったことをあとで知るのであった。
結果は落第――。
一年遅れで中学に入ると、すぐに5、6人の仲間ができて、年長で経験や知識に長けた小三郎はすぐにガキ大将となった。母の志げもまた友だちを連れてくることを歓迎し、なかには勝手に冷蔵庫を開ける子もいたぐらい開放的な家庭であった。
思春期は人恋しく、寝る間際になると仲良しの友人に会いたくなる小三郎だった。
朝になると、毎日勝手口に迎えに来ていたK君は小三郎をボスとして慕っていたひとりで、温厚でまじめな性格からのちに医者となり、志げの最後を看取ったのであった。
小三郎は毎晩のように往診に追われる父の背中を見て、その大変さから本心は医者にあこがれを抱くことはなかった。ただ、漠然とではあったが将来は医師を志さなければならないとは感じとっていた。しかし、生き物を傷つけることのできない性格からカエルの解剖すらできない小三郎は、到底血を見ることなどできそうになかった。そのころになると植物に興味を抱き、病院の中庭に温室をこしらえてもらいペチュニアなどを栽培しては病院内で自慢をしていた。
母、志げはふさぎがちな患者の気分を和らげようと、待合室から望む庭にチューリップ、ボタン、シャクヤクなどを植え毎年の手入れを欠かさなかった。
函館中学時代の小三郎
そのころ小三郎は、とある秘密を知った。
ピアノの部屋が書斎と呼ばれていて、壁の片面が全部本で覆われていてドイツ語の医学書や百科事典などで埋まっていた。小三郎が読破しようとした矢先、その医学書のなかから、それまで見たことも想像したこともない春画の浮世絵が出てきたのである。それからというもの、家の人には内緒でそれを目当て次から次へと仲間がやってきたのだった。
しかし世相は暗い方へと突き進んでいった。1941(昭和16)年12月8日、日本のハワイ真珠湾攻撃によって太平洋戦争がはじまった。
翌42(昭和17)年、小三郎が17歳のころ、桑島恭子(忠一の長女)は山形県女子師範学校(現・山形大学教育学部)を卒業して長井で小学校の先生をしていたが、志げから強く望まれてその年の4月に長男・小太郎と結婚し北の大地での新婚生活がはじまったのである。
そして、次男の小次郎は旧制・岩手医学専門学校へと進み、小三郎は1944(昭和19年)に医学校ほか何校かの試験を受けたが、結果的には青森県弘前市にある旧制弘前高等学校の医学進学課程・理科乙類に合格した。
・・・第3章に続く
目次へ戻る -
大道寺小三郎伝 第2章「北の大地」4
小学生時代
1933(昭和8)年2月、小三郎が8歳とのきに長井へのお礼として、桑島忠一の長女・恭子(やすこ)が大道寺家へ迎えられ、英語教育を望み、4月には函館・遺愛女学校へと入学した。
翌34(昭和9)年3月21日、強風が吹き荒れる中、函館市内で火災が発生し、死者2,166名、焼損棟数11,105棟を数える大惨事となった。そのときは蔵にピアノを入れ、出入口の隙間には味噌を塗ってから避難した。
一方、医科大学を目指していた長男の小太郎は、東北大学病院で腎臓結核の大手術を受けて兵役を免除された。小市は小太郎に三菱財閥系の小岩井農場でサラブレットの扱い方などを習得させた後、空気のよい東静内の牧草地で牧場経営をさせることにした。実家が農家で農業に詳しい小市は、馬の飼育だけで土地は肥沃にならないと考え牛を飼って堆肥をつくるよう助言した。小太郎が25歳になった昭和11年には、小作人4人とドーベルマンのユンクという犬を連れて八雲町に行き牛4頭を買い入れた。これが東静内における牛の飼育第1号となった。
昭和初期の函館はウラジオストークと定期船があり、オホーツクを漁業領域とする日魯漁業では大勢のロシア人が働いていた。ロシア革命の混乱から亡命してきた人々もいて、街角にはロシア風の菓子やパンを売る店もあらわれた。言葉は理解できなくとも、父からの話しと日常的に出会うロシア人は小三郎にとって親しみのある存在だった。 ひ弱だった幼年時代から、徐々に逞しくなっていったのは、海遊びを覚えたころからであった。
自宅のある函館の若松町からは青函連絡船の桟橋が近い。連絡船の燃料は石炭だったから、洗濯物がススで真っ黒くなるような場所でもあった。若松小学校から帰るやいなや、小三郎はまっ先に貸しボート屋へと向かう。そこでは漁師が使った古い船を、2時間10銭で借りて、友だちと一緒に浅瀬を漕ぎ回る日々がつづいた。
新聞は毎日読んだが、雨天の日は父の書斎に入って大人の読む大衆雑誌『キング』を読み、航海に必要な知識やさらには天文学に関する本を読みあさっていった。
船や飛行機の模型造りにも夢中になった。とくに船はアルコールランプを燃料にして小さなボイラーを熱し、単気筒のスチームエンジンを積んだボートは結構なスピードで走らせることができた。
小三郎の成績は唱歌を抜かせばすべて「甲」、卒業時の成績は全学年で2位であった。
体力も増して思いやりがあり、知識の豊富な小三郎は自然と友だちも増えてゆき、リーダーシップを発揮しだしていった。
あるとき、「○○さんのうちがつぶれた」と、小三郎は親しい友だちの肉屋の話しを耳に挟んだ。すると、心配で矢もたまらずすっ飛んでいって確認するとすぐさま母に言った。
「つぶれて(ぺしゃんこ)なかった。家はちゃんとあったよ」
そのとき幼心にもはじめて倒産の意味を知った。
目次へ戻る -
大道寺小三郎伝 第2章「北の大地」3
ロシア人の親切

愛犬カピ
小市は、ことあるごとにシベリア鉄道の旅で出会ったロシア人の親切を説いた。日本酒を好んだ小市は、晩酌の折にはその様子を具体的に何回も子どもたちに話して聞かせた。また、おやつとしてロシア人からしてもらったイクラや砂糖をかけたパンをあたえた。また、牛乳が6銭の時代に子どもの情操教育には犬がよいことをスイスで学び、当時は珍しいテリアを20円で買いあたえ、エクトル・マロの「家なき子」に登場する犬と同じカピと命名し、欧米と同じように家の中で飼った。
志げは小三郎に言った。
「犬はなにも言えないから、つねになにを欲しているかを飼い主が考えてやらなければならないんだよ」
エサは人間が食事をする前に必ずあたえ、寝るのも一緒だった。
小三郎はもの言えぬ犬に細やかな気遣いを忘れなかった。
大道寺家の食事は、小市を中心に大きな座卓を囲み、小市のあぐらにはバスタオルを敷いて犬をのせ、家族ほか看護婦やお手伝いさんも分け隔てなく全員が同じ食卓を囲んだ。
函館ではイカ売りが、早朝から「イカ、イカー」と叫びながら港に揚がったイカを売り歩いていたから、地元では鮮度のいい半透明な刺身が食膳にのった。
冬場は山形の母の兄である五郎から、飼っている鯉の甘露煮を送ってきたが、海辺の魚に慣れた食卓では不評であった。志げは漬物専用の部屋に、身欠きニシンとキャベツのニシン漬、昆布を入れた赤カブの千枚漬、鮭のすし、塩辛などを毎年欠かさず漬けた。
小市は貧しい患者からはお金をもらわなかった。カルテにドイツ語で「フライ(英語のフリー)」と書くとタダのしるしだ。薬局にいる志げが小市のところへ確認に来て「この患者さん、フライですね?」と訊く。そういう患者からは、お礼にと正月には鶏が届けられた。それを志げはきれいに捌いてとりわけ、その骨を煮込だスープを一升瓶に数本作り正月の料理用にした。また、大工さん手製の板に志げが百人一首を書いてオリジナル・カルタを作り、くわえてトランプは家族のほかに看護婦らも混じっての正月の恒例行事だった。
ときにはフライパンを重ねてオーブンにしたて、カキのグラタンを作ったり、ドーナツのおやつもあり、紅茶はリプトン、ココアはバンホーテンがつねにあった。

1932(昭和7)年、函館・若松町自宅の中庭にて(下段左から父・小市と4女・洋子、右は小学1年生の小三郎を抱いている長男・小太郎。後ろ左から長女・静子、次女・節子、3女・由利子、次男・小太郎 )小市は、患者の要請に断ることなく毎晩のように往診へ出かけるという働きづめの日々をおくっていた。当時、市の指示で街中の野犬が撲殺され、子どもの前でも容赦なく野犬狩りが繰り広げられていた。それを見かねた小市は、市庁に対し激しく抗議した。
志げは、月初めの健康保険の書類作成などの医療事務と薬局をきりもりし、子どもたちの弁当も毎朝欠かさずつくった。その後は患者を受け入れ、午前10時の一服休みには茶の間に帰ってくる小市に欠かさず玉露を淹れる。食事に繕いものまでこなし、カピが毛の薄い犬だったので、冬には毛糸で防寒着を編んで着せてやったりした。ひび割れた手にはベルツ水という、東京帝国大学医学部に招かれたドイツ人のベルツ博士が作った化粧水を自ら処方して塗ってしのいだ。
小市がヨーロッパから買ってきたものは、大きなものではバラ模様の象嵌が美しいピアノのほかさまざまなものがあり、レントゲン室以外の蔵は貴重品を入れておく物置に使われた。
目次へ戻る -
大道寺小三郎伝 第2章「北の大地」2
函館市で診療所開設

大道寺病院(昭和15年頃・函館市新川町)
1931(昭和6)年、小三郎が6歳になる前、小市は函館市若松町で診療所を開設した。それは民家を3軒ほど足したようなところで蔵が2つあった。医院裏の蔵の1階はレントゲン室で、自宅を挟んだ裏の蔵は座敷となっており看護婦が使用していた。1940(昭和15)年には新川町に敷地は400坪、建坪300の木造2階建、病床が20以上を備えた函館一の規模を誇る病院となった。看板には「内科、小児科、産婦人科、ドクトルメジチーネ、大道寺小市」と掲げた。暖房は石炭を燃料にしたセントラル式のボイラーからスチーム(蒸気)をラジエーターに行き渡らせ、薪と石炭ストーブと併用していた。
上の4人の子は親戚を頼って山形県長井市の学校へやるなど、子どもたちの教育、交通環境を考慮した決断であった。当時、鉄道では静内から函館まで約10時間を要していたからだ 。
小太郎と小次郎は母、志げの長兄の子で、のちに山形県の長井小学校の校長から町長を歴任した桑島忠一宅から中学へと進み、静子と節子は仙台医学専門学校(東北大学医学部の前身)で魯迅と机を並べたこともある、同じ長井に眼科を開業した志げの兄、桑島五郎宅へあずけられた。

大道寺小三郎、3歳頃(静内時代)小三郎は小学校へ上がるわずかな期間、メソジット系の遺愛幼稚園分園に洋子と一緒に通った。クリスマスになると聖ハリストス教会のそばにある本園に行ってキリスト生誕行事を祝った。その席で小三郎は、キリスト生誕を祝うせりふを皆の前で言うはずだったが、順番が回ってきた途端に上気して頭が真っ白になり、ひと言も発することができなかった。
ある日の夕方、突然泣き出した小三郎は母親がいくら慰めてもやまなかった。志げは久しぶりに小三郎を背中におぶって家の回りを歩いた。
「小三郎さん、どうしてそんなに泣くの、教えてちょうだい。なにが悲しいの?」
小三郎は答えず、またひとしきり泣いた。母志げは、幼少時から「さん」付けで呼んだ。
「お母さんにだけはこっそり教えてよ、誰にも言わないから」
それにも答えず泣き通したが、小一時間もしてから思い切って訊ねた。
「おかあちゃんも、死ぬの?」
その日、入院患者の誰かが病室で死んだという話しを耳にした小三郎は、看護婦から人間は誰でも必ず死ぬものだと聞かされた。
死という概念が急に迫り、大好きなおかあちゃんも死ぬのだと考えだしたときから泣き出したのだった。
しばらくの間、無言だった志げは、ほがらかな声で小三郎に告げた。
「小三郎さん、なんてバカなことを考えているの。ほかの人は死んでも、お母さんは死なないんだよ。絶対に死なない」
途端にうれしくなった小三郎は、背中から飛び降りてスキップしながら母の手を握りしめて家路についた。
志げは病院の薬局を任され、家と病院一切の経済をすべて支えながら7人の子どもを育てる忙しい日々に追われていただけに、想像もしなかったわが子からの言葉がうれしく、終生忘れることはなかった。
幼少時代の小三郎は、色白でもの静か、きゃしゃな体つきで運動が苦手。本ばかり読んでいる気の弱い子どもであった。友だちにいじめられて泣いて帰ってくると、2歳年下だが体が丈夫で男勝りの洋子がかばうほどであった。
「ふたりが替われるものならよかったのに」
周囲からは何度となくそんな言葉が囁かれた。
年が近いこともあって、「小三郎ちゃん」「洋子ちゃん」と呼び合った。
函館に移った年の秋。奉天(現・瀋陽)北方の柳条溝の鉄道爆破事件を契機とする日本の中国東北侵略戦争がはじまった。いわゆる満州事変からはじまる15年戦争の第1段階であり、翌32(昭和7)年には帝国陸軍は満州国を樹立し華北分離工作を経て泥沼の日中戦争へと向かってゆくのであった。
目次へ戻る -
大道寺小三郎伝 第2章「北の大地」1
大道寺小三郎の父

開業まもないころの小市(30歳)と志げ(26歳)
大道寺小三郎の父、小市はより先進的な医療の実践にはドイツ留学の必要性を痛感していた。
明治以降、日本の近代化はドイツやフランスを中心としたヨーロッパに倣っていた。
医学界では牛の天然痘を利用し世界初の「ワクチン」を開発したのがイギリスのエドワード・ジェンナーであり、次いでドイツのローベルト・コッホはのちに「コッホの条件」といわれる細菌学の科学的法則を確立した。また彼の弟子ベーリングはジフテリアを研究し、モルモットの実験から免疫を作る抗体の存在を証明した。ジェンナー、コッホとも田舎町の名もない開業医だった。
小市は、現在の山形県長井市五十川にあった農家の4男として1883(明治16)年に生まれた。父は山形市の西隣にある山辺町の医者、多田善六の次男で大道寺家へ婿養子となった。大道寺家は長男が継ぎ、小市は祖父と同じ医学の道を志したのである。東京慈恵医科大学の創始者である高木兼寛のもとで修行し、高浜虚子、岩波茂雄など著名な文化人の代診を行っていた。やがて同郷で小学校の教諭をしていた4歳年下の桑島シゲと結婚。東京神田に居を構えたが、1913(大正2)年、三崎町から出た火の手は神田一帯に拡がり大火となって小市は住居を焼失した。
それを機に、小市は北海道の無医村であった東静内(現・新ひだか町)で働こうと決意した。シゲは結婚後に名を志げとあらため、そのときには初めての子を宿していた。
上野から東北本線で終着駅の青森までは約26時間半、桟橋から艀と呼ばれた小舟で連絡船に乗り、函館を経由して日高地方の春立海岸に上陸するまでには丸2日を要した。
医院は平屋の木造住宅を改造したようなつくりで、山奥の部落への往診のための馬小屋があり、薬局は志げが担当するという北の大地での共働き生活がはじまった。
スイスで撮った写真(小市・44歳)まもなく長女の静子が誕生し、翌年には長男の小太郎が生まれた。次いで次女の節子、次男の小次郎、3女の由利子と女と男の子が交互に生まれそれぞれに子守を付けて育てた。
1924(大正13)年には北海道庁の委託で静内郡静内村へ移り、本格的な医療に取り組んだ。自らが経営する病院のほかに、別棟としてあったアイヌ民族の病院の院長も兼ね、入浴など衛生的生活の指導にもあたった。
ベルン大学・医学博士号証書(1927年11月)翌25(大正14)年5月1日、3男として静内に生を受けたのが大道寺小三郎である。 当初、ドイツ留学を希望していた小市だったが、第一次世界大戦(1914~18)の敗北の影響でドイツの混乱がつづいていた状況下、行き先をスイスの首都にあるベルン大学へと変更した。出発前、また新たに子どもが生まれることがわかり、あらかじめ男子だったら小四郎、女子だったら洋行にちなんで洋子と名付けるように決めてから旅立った。

約1年半にわたったベルン留学時代。
下宿の窓から小市が撮った朝の街並み。
中央に牛乳配達が見える。8月29日には小三郎と、2歳離れた4女の洋子が誕生した。
次男の小次郎とは7歳、3女の由利子とは4歳離れた小三郎は、生まれたときから年の近い妹の洋子にべったりとくっついていた。
「ようこちゃん、どこから来たの?」
不思議でしょうがない小三郎は赤ちゃんになんども訊いた。
「ぼくは、テニスコートの木の根っこから生まれたんだよ」
だれが教えたのか小三郎はそう思っていた。当時すでに診療所にテニスコートがあり、小市、志げを中心に看護婦やお手伝いさんも一緒に遊んだ。
帰国後はスイスで経験した氷上カーニバルを行い、参加者はピエロなどに変装してスケートを楽しむというじつに趣向を凝らした催しだった。また、往診用にと当時は非常に珍しい米国製自動車を購入し、長井から呼び寄せた沼澤余一という男が運転手として雇われた。
生活のすべてがヨーロッパからもたらされた先進的スタイルに変わり、自由な時が流れていた。
ある日、小三郎と洋子が静内川の河口付近の海岸に遊びにでかけたときだった。アイヌたちが水辺に足を浸しながら「ホーイ、ホイ」と繰り返し悲しそうな声を発し、半円を描くように回りながら死者を弔う儀式を行う場面に遭遇した。
ふたりは何をするにも一緒だったが、このもの悲しい光景は静内時代の想い出として胸中に深く刻まれたのである。
目次へ戻る -
大道寺小三郎伝第1章「ふたりのロシア」4
1927(昭和2)年2月
1927(昭和2)年2月――。
北海道静内町からひとりの青年医師がスイス留学へと向かうためシベリア鉄道に乗った。名は大道寺小市。
1917(大正6)年のロシア革命の5年後、1922年にソビエト連邦社会主義共和国が成立したが、食料をはじめ物資が不足し混乱は人々の暮らしに影を落としていた。往路は敦賀からウラジオストークへ船で渡り、鉄道に乗ってベルンを目指した。車窓から見るシベリアの原野は果てしなくつづく草原風景以外にはなにもなかった。
前後の車輌を見渡す限り日本人は小市だけで、やがて疲労と空腹に耐えながら異国を旅する不安にかられていった。
当時、ヨーロッパへ行くにはいくつかのルートがあり、船旅では4週間以上、大陸を経由してスイスへと行くには最短でも約2週間を要した。
真冬のシベリア鉄道は悪天候による事故などでしばしばダイヤが乱れ、小市の乗った列車も主要都市では長い時間の停車を余儀なくされた。
そんな車中にあって、向かいに座った中年のロシア人夫婦が荷物から黒いパンを取り出したときだった。
どちらともなく軽く微笑み合い、小市は目を瞑った。
まもなく小市は膝を軽く叩かれて目を開いた。すると、目の前に黒パンを千切って大きい方が目の前に差し出されたのである。
遠慮する小市に、ロシア人夫婦は気にするなと身振り手振りですすめた。
貴重な食料を見ず知らずの日本人に分けあたえてくれたロシア人……。
ずっしりと重い黒パンは噛むほどに味わいがあった。このシーンは生涯、小市の胸に深く刻まれ、子どもたちへと語り継がれてゆくのであった。
翌3月には中小銀行が破綻したのを口火に各銀行が休業や廃業となり、日本では昭和の金融恐慌がはじまった。
・・・第2章に続く
目次へ戻る -
大道寺小三郎伝第1章「ふたりのロシア」3
S支店長に番が回ってきた

ソ連アカデミーシベリア支部 湖沼研究所来青記念式典
(右から2番目、菊池武正氏/1991年)そして、S支店長に番が回ってきたときだった。
「およそでありますが、国家レベルの100分の1だと把握しています」
大道寺の口元が一瞬弛んだ。
「おっ、そうか。バブルはいずれはじける。人々は不安におののくだろう。いうまでもなく本県の産業構造は旧態依然として、基幹となる分野は少ないし脆弱なことに変わりはない。ただ見方を変えればダメージは都市部よりは少なくてすむ。そして不安の矛先を安心に変えるようなことを経済人、とくに地銀は心しなければならない。近い将来、人口においては国全体が減少し、とりわけ産業基盤の脆弱な本県の人口減少は著しく、そのなかで中小企業が生き抜くためにはどうしたらいいのか。それはわが銀行も同じであって、活路を外へ見いださない限り縮小の一途をたどる。よって、歴史的つながりの深い近隣諸国、とりわけ日本海を挟み今後大きく経済成長が見込める国々への進出が不可欠となろう。誰もがやらないことをする。そこに仕事の真価、価値というものがある、そうだろう。支店長は頭取の表見代理だという気概を持って仕事をしてもらいたい。どうしいいかわからないときこそ、チャンスなんだ」
そう締めくくり、ようやく着座した。
本州最北端にある地方銀行の常識をはるかに超えたボーダレス経済戦略の幕開けだった。組織としての最大の眼目は、みちのく銀行の現地法人設立、定期航空路の開設にともなう経済、医療、文化、スポーツなどあらゆる分野での日ロ交流の推進であった。しかしそれは、エネルギー資源への巨額の投資や資金に関わる都市銀行などのメガバンクと肩を並べることではなかった。
その年の6月、弘南バス6代目社長菊池武正を会長にロシア連邦、とくに極東区域との交流推進、相互理解と親善に資する事業を行う目的で青森県日ロ交流協会が設立され仕掛け人である大道寺は副会長に就いた。
1990年から始まったロシアへの献身的行為は、瞬く間に極東ロシアの人々に広まっていった。そのきっかけは大道寺が本格的な視察に訪れたハバロフスクの広場でのことだった。おばあさんがしなびて色のよくない何かのタネを売っていたので、ついハトの餌と思い購入してすぐにばらまきはじめたときだった。
「やめなさい、なにをするの! アタマはたしかなの?これは人間が食べる大切なトウモロコシの種なの」
言葉は通じなかったが、身振り手振りから容易に想像できた。遠い昔、父を助けてくれたあの心豊かな国の人々があえいでいた。
物がなかった。あったとしもそれは日本の物とは比べようもないほど劣っていた。医療現場では注射器すら不足し、すべての機械は老朽化していた。
その一方で、バレエや絵画、音楽など芸術に対する姿勢は日本人とは素地が違っていた。どんなに貧しくとも、人々は幼いころから数多くの民話が色彩豊かな絵本を通じて語り継がれ、人が集まれば歌を唄い、芸術が生活にとけ込んでいた。
ロシア人は出会った当初はとっつきにくいが、いったん付き合うととことん心を開く。どんなに困窮していても、旅人を迎え入れたときにはその日ありったけのごちそうを振る舞うあたりが津軽人の気質に似ていると大道寺は思った。
半世紀を過ぎたいまも、父が語ってくれた心根のやさしい国の本質は失われてはいなかった。自分のため、銀行のため、地域の未来のためにできうることは何でもしようと大道寺は決意した。
配布したトウモロコシの生育を視察(1992年、ハバロフスク郊外にて)その後すぐに、大道寺は「サカタのタネ」の協力を得て1991年に第1回のトウモロコシの種子4000キログラムを街頭で配布したのを皮切りに、ニンジン、ダイコンなどの野菜、サルビア、コスモスなどの花の種やグラジオラスの球根と拡大していった。つづいて家庭で眠っている中古ピアノが贈られた。その話題がテレビ番組で放送された直後から、全国からの申し出があり、メンテナンス後に寄贈者の名を入れたピアノが船積みされていった。寄贈先からは感謝の手紙と写真が添えられて各家庭に届いた。

種の配布(1993年、ハバロフスク市内)医療交流は弘前大学医学部を中心に、視察団を組織派遣し、ロシア側からも同大学医学部に研修医を招聘し、最新の医療システムと医療機器の取り扱い方を学んでいった。CTスキャンを贈る際も、不安定な電圧にも耐えるよう細心の心遣いを忘れなかった。また、極東ロシアでは設備や技術的に不可能な子どもの手術に特別便を飛ばしてまで対応した。
1995(平成7)年、念願の青森とハバロフスク間の定期便が就航してからは、各種ツアーをはじめ、経済人の行き来とともに夏休みには少年少女の交流も活発化してゆく。
目次へ戻る -
大道寺小三郎伝第1章「ふたりのロシア」2
センター長が挨拶

第一回ソ連経済視察の懇親会(1990年)つづいてセンター長が挨拶に立った。
「このビジネスセンターを軸に自由経済の門戸が開くことを堅く信じています。貴国がこのセンター開設を機にさらに発展され、経済的また何より友好的交流が前進するものと期待しております。そのために最善をつくしたい。私たちは極東の一員です。いまこの2つの国が手を結ぶことで世界経済の礎となると思います。今日のすばらしき日に皆様とお会いできたことに感謝申し上げます。外はたいそう寒く雪も積もっていますが、ここはまるで溶鉱炉のように一番熱い場所になるでしょう。ボルショイ、スパシーバ」
宴席の各テーブルにはワイン、ブランデーをはじめ、黒パン、生野菜、ベーコン、スモークサーモンなどがふんだんに供され、舞台では民族音楽、舞踏、寸劇が次から次へと披露されていった――。
サヒンツェントル(サハリンセンター)新しく生まれかわったロシアの人々は、混乱のなかにも秩序ある自由を望んでいた。
サヒンツェントルはユジノサハリンスク駅からまっすぐに伸びるコムニスチーチェスキー(共産主義者)通りに面し、サハリン州行政府庁舎のほぼ斜め向かいに位置し駅からは歩いて15分ほどのところにある。
旧樺太であったサハリンは、日本国領土ではなくサンフランシスコ講和条約でロシア(当時はソ連)が領土を主張。日本政府として放棄はしたがロシアのものでもないという立場を主張してきた。したがって、日本の銀行の支店や駐在事務所設置の許可は不可能であり、進出の足がかりは民間会社に限られている。そこで、同ビル建設の合弁事業の際、株式の約三割を取得したのはみちのく銀行の子会社であり、その名を借りた手探りの交流からはじめる以外になかった。
現在のサヒンツェントルには、サハリン州政府経済委員会ほか多くの外資系企業がテナントを占め、日本からはサハリン石油天然ガス開発協力株式会社(SODECO)、日本センター(日本外務省外郭団体)丸紅、マルハニチロ水産など錚々たる企業が事務所を構えている。戦前はすぐ近くに樺太庁の庁舎があったが、いまでは劇場やサハリン州行政府があり街の中心部となっている。また、サハリン島の北部に位置するオハ油田からは、大陸のコムソモリスク・ナ・アムーレという航空機製造工場のある町に達するパイプラインが間宮海峡の底を通っている。
1990(平成2)年から大道寺を中心に進められたみちのくの銀行海外プロジェクトは、世界金融の中心地ウォール街のあるニューヨーク駐在事務所の開設から本格化した。折しも日本経済は1980年代半ばからはじまったバブル経済の崩壊を目前にしていた時期と重なる。前年の平成元年は投資が活発化し空前の好景気となり、日経ダウ平均で株価は3万8915円87銭とピークを記録した。だが、実体経済の成長とはかけ離れた資産価格の上昇をともなった異様さをだれもが感じていた。
本州の最北端に位置する青森県とて例外ではなかった。不動産を中心に取引が活発化し金融機関もまた株価を上げていたが、90年10月に2万円割れした株価が示すように、わずか9ヶ月あまりの間に半値に近い水準にまで下落し、土地の路線価格も92年をピークにバブルは崩壊してゆく。
その前夜の支店長会議でのことであった。いつものごとく、大道寺は企画調整部が事前に用意した報告書には目もくれず、自ら起立して居並ぶ支店長に質問をはじめた。
「○○支店長、青森県のGDP(総生産)はいくらだね?」
このようなスタイルが定着してからというもの、役員をはじめ各支店長は安穏と会議に出席するわけにはいかないことなど覚悟はしているのだが、たいていは突然の指名に頭は真っ白くなり声を詰まらせるのだった。
「もうしわけありません、はっきりとした数値はわかりません」
即答できずに3人、4人と指名が流れていくうちに大道寺の顔は見る見るうちにかげりはじめ、重苦しい雰囲気がさらにプレッシャーに拍車をかけて列席者の思考を空白にさせた。だからといって適当にその場しのぎの発言などはもってのほかで、過去にウラをとられてすっかり信用を失った部下も少なくなかった。
目次へ戻る