大道寺小三郎伝 第2章「北の大地」4

小学生時代
 
 1933(昭和8)年2月、小三郎が8歳とのきに長井へのお礼として、桑島忠一の長女・恭子(やすこ)が大道寺家へ迎えられ、英語教育を望み、4月には函館・遺愛女学校へと入学した。
 翌34(昭和9)年3月21日、強風が吹き荒れる中、函館市内で火災が発生し、死者2,166名、焼損棟数11,105棟を数える大惨事となった。そのときは蔵にピアノを入れ、出入口の隙間には味噌を塗ってから避難した。
 一方、医科大学を目指していた長男の小太郎は、東北大学病院で腎臓結核の大手術を受けて兵役を免除された。小市は小太郎に三菱財閥系の小岩井農場でサラブレットの扱い方などを習得させた後、空気のよい東静内の牧草地で牧場経営をさせることにした。実家が農家で農業に詳しい小市は、馬の飼育だけで土地は肥沃にならないと考え牛を飼って堆肥をつくるよう助言した。小太郎が25歳になった昭和11年には、小作人4人とドーベルマンのユンクという犬を連れて八雲町に行き牛4頭を買い入れた。これが東静内における牛の飼育第1号となった。
 昭和初期の函館はウラジオストークと定期船があり、オホーツクを漁業領域とする日魯漁業では大勢のロシア人が働いていた。ロシア革命の混乱から亡命してきた人々もいて、街角にはロシア風の菓子やパンを売る店もあらわれた。言葉は理解できなくとも、父からの話しと日常的に出会うロシア人は小三郎にとって親しみのある存在だった。 ひ弱だった幼年時代から、徐々に逞しくなっていったのは、海遊びを覚えたころからであった。
 自宅のある函館の若松町からは青函連絡船の桟橋が近い。連絡船の燃料は石炭だったから、洗濯物がススで真っ黒くなるような場所でもあった。若松小学校から帰るやいなや、小三郎はまっ先に貸しボート屋へと向かう。そこでは漁師が使った古い船を、2時間10銭で借りて、友だちと一緒に浅瀬を漕ぎ回る日々がつづいた。
新聞は毎日読んだが、雨天の日は父の書斎に入って大人の読む大衆雑誌『キング』を読み、航海に必要な知識やさらには天文学に関する本を読みあさっていった。
 船や飛行機の模型造りにも夢中になった。とくに船はアルコールランプを燃料にして小さなボイラーを熱し、単気筒のスチームエンジンを積んだボートは結構なスピードで走らせることができた。
小三郎の成績は唱歌を抜かせばすべて「甲」、卒業時の成績は全学年で2位であった。
体力も増して思いやりがあり、知識の豊富な小三郎は自然と友だちも増えてゆき、リーダーシップを発揮しだしていった。
 あるとき、「○○さんのうちがつぶれた」と、小三郎は親しい友だちの肉屋の話しを耳に挟んだ。すると、心配で矢もたまらずすっ飛んでいって確認するとすぐさま母に言った。
 「つぶれて(ぺしゃんこ)なかった。家はちゃんとあったよ」
 そのとき幼心にもはじめて倒産の意味を知った。
 
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