大道寺小三郎伝第1章「ふたりのロシア」2

センター長が挨拶
 
 

第一回ソ連経済視察の懇親会(1990年)

 つづいてセンター長が挨拶に立った。
「このビジネスセンターを軸に自由経済の門戸が開くことを堅く信じています。貴国がこのセンター開設を機にさらに発展され、経済的また何より友好的交流が前進するものと期待しております。そのために最善をつくしたい。私たちは極東の一員です。いまこの2つの国が手を結ぶことで世界経済の礎となると思います。今日のすばらしき日に皆様とお会いできたことに感謝申し上げます。外はたいそう寒く雪も積もっていますが、ここはまるで溶鉱炉のように一番熱い場所になるでしょう。ボルショイ、スパシーバ」
 宴席の各テーブルにはワイン、ブランデーをはじめ、黒パン、生野菜、ベーコン、スモークサーモンなどがふんだんに供され、舞台では民族音楽、舞踏、寸劇が次から次へと披露されていった――。


サヒンツェントル(サハリンセンター)

 新しく生まれかわったロシアの人々は、混乱のなかにも秩序ある自由を望んでいた。
サヒンツェントルはユジノサハリンスク駅からまっすぐに伸びるコムニスチーチェスキー(共産主義者)通りに面し、サハリン州行政府庁舎のほぼ斜め向かいに位置し駅からは歩いて15分ほどのところにある。
 旧樺太であったサハリンは、日本国領土ではなくサンフランシスコ講和条約でロシア(当時はソ連)が領土を主張。日本政府として放棄はしたがロシアのものでもないという立場を主張してきた。したがって、日本の銀行の支店や駐在事務所設置の許可は不可能であり、進出の足がかりは民間会社に限られている。そこで、同ビル建設の合弁事業の際、株式の約三割を取得したのはみちのく銀行の子会社であり、その名を借りた手探りの交流からはじめる以外になかった。
 現在のサヒンツェントルには、サハリン州政府経済委員会ほか多くの外資系企業がテナントを占め、日本からはサハリン石油天然ガス開発協力株式会社(SODECO)、日本センター(日本外務省外郭団体)丸紅、マルハニチロ水産など錚々たる企業が事務所を構えている。戦前はすぐ近くに樺太庁の庁舎があったが、いまでは劇場やサハリン州行政府があり街の中心部となっている。また、サハリン島の北部に位置するオハ油田からは、大陸のコムソモリスク・ナ・アムーレという航空機製造工場のある町に達するパイプラインが間宮海峡の底を通っている。
 
 1990(平成2)年から大道寺を中心に進められたみちのくの銀行海外プロジェクトは、世界金融の中心地ウォール街のあるニューヨーク駐在事務所の開設から本格化した。折しも日本経済は1980年代半ばからはじまったバブル経済の崩壊を目前にしていた時期と重なる。前年の平成元年は投資が活発化し空前の好景気となり、日経ダウ平均で株価は3万8915円87銭とピークを記録した。だが、実体経済の成長とはかけ離れた資産価格の上昇をともなった異様さをだれもが感じていた。
 
 
 本州の最北端に位置する青森県とて例外ではなかった。不動産を中心に取引が活発化し金融機関もまた株価を上げていたが、90年10月に2万円割れした株価が示すように、わずか9ヶ月あまりの間に半値に近い水準にまで下落し、土地の路線価格も92年をピークにバブルは崩壊してゆく。
 
 
 その前夜の支店長会議でのことであった。いつものごとく、大道寺は企画調整部が事前に用意した報告書には目もくれず、自ら起立して居並ぶ支店長に質問をはじめた。
 「○○支店長、青森県のGDP(総生産)はいくらだね?」
 このようなスタイルが定着してからというもの、役員をはじめ各支店長は安穏と会議に出席するわけにはいかないことなど覚悟はしているのだが、たいていは突然の指名に頭は真っ白くなり声を詰まらせるのだった。
 「もうしわけありません、はっきりとした数値はわかりません」
 即答できずに3人、4人と指名が流れていくうちに大道寺の顔は見る見るうちにかげりはじめ、重苦しい雰囲気がさらにプレッシャーに拍車をかけて列席者の思考を空白にさせた。だからといって適当にその場しのぎの発言などはもってのほかで、過去にウラをとられてすっかり信用を失った部下も少なくなかった。
 
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