大道寺小三郎伝 第3章「動乱」1

ミッドウェー海戦以降
 

現在の弘前大学の場所にあった旧制・弘前高等学校
 
 
 1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦以降、戦況は次第に深刻な状況に追い込まれていく。
 開戦直後は浮かれていたが、アジア全域に拡がった戦線を維持できなくなるばかりか各地で敗退が始まっていった。ナベカマにいたるまですべて金属物の供出がはじまり、食料確保にと空地は農園になり札幌では大通り公園まで畑と化した。
 巷では軍歌「ラバウル小唄」「同期の桜」などが流行していた。
 大道寺小三郎が旧制・弘前高等学校に入学したころには全寮制であった。ただし木造2階建、各部屋は6畳一間に定員2人。コンクリート製の火鉢があるだけの粗末なつくりであった。
 「ハラへったなぁ」
 「アタックするか?」
 周囲はリンゴ園に囲まれていた。生徒が食べるだけのドロボウ行為が大目に見てもらえたのは、地域のエリート校としてはもちろん、全国から成績優秀な将来を嘱望された若者が集まってきていたからだ。
 
 

現在の入学時に大道寺小三郎が写した南寮生
 
 
弘前という街は津軽藩主を失ってからというもの、明治以降はリンゴ以外にこれといった産業がなかった。そこへ1万人規模を擁する第八師団が設置されたことにより、第二師団のある仙台以北では最大規模の軍都としての様相を呈していった。他所からやってきた軍人と同様、弘高生は精気を失っていた街にとってありがたい存在であった。夜な夜な代官町、土手町十文字から富田方面にかけての飲食店は繁盛し、軍人や学生の宴会が繰り広げられていた。
 だが、物資の不足は急速にやってきた。食料だけではなく寮生活のあらゆる面にも色濃く影響が出はじめた。第一が便所紙だ。用を足すたびに障子紙が剥がされてゆくものだから、寮の建具はあっという間に骨だけになってしまった。
 小三郎は、函館の父に宛て近況報告をかねた1通のハガキを出した。
 その数日後――。
 小三郎は弘前の、小市は函館の憲兵隊に呼ばれ事情聴取の上叱責される。
――東条の乱暴な政策、無能な愚政、ただちに東条は政権の座を降りるべきだ……。
 したためたハガキの文面が通信検閲に引っかかったのである。
 数日後、小三郎は父に詫びた。
 「当たり前のことを書いて怒られたんだから……相手が悪いんだ。気にすることはない」
 父はそういって慰めた。
 小市は物量による戦争数学について説いていた。それは第一次世界大戦後にヨーロッパで確立されたもので、小市は開戦当初から日本の旗色の悪さを指摘していた。函館の憲兵隊長を前に小市はこう言い放った。
 「こんな事で呼び出すとは何事だ! 子どもたちですら先行きを案じている重大局面にあって、つまらん事に君たちは時間を割いている暇があるのかね。やるべきことはほかにあるだろう」
 長年にわたり函館の警察医の嘱託を受けており、それなりの立場があった。
 「規則ですから、ご理解下さい。時節柄、あまり面倒なことにはしたくはありませんので」
 半ば脅しともとれる発言に、小市は引き下がるどころか憲兵隊の官僚制を非難した。
 絶対国防圏を定め、大部隊をもってマリアナ諸島を死守せよと発令した東条内閣は、サイパン島周辺の守備を増強するも6月のマリアナ沖海戦の敗北につづき、7月のサイパン戦では3万もの人々が玉砕するという惨憺たる結果となった。
 そしてこの検閲事件が終わらないうちに、戦争を遂行した東条英機内閣は総辞職に追い込まれたのである。
 
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