大道寺小三郎伝 第5章「種をまく人」4

極東ロシア~死去
 

大道寺小三郎は滅びゆく和船とその建造の技術を後世に伝えようと、地元周辺はもとより世界中から船を集めていた。文部省がそのコレクションの貴重価値を認めたことから、「(財)みちのく北方漁船博物館/現・船の科学館(青森市)」が誕生した。その集大成である国内最大級の北前型弁才船の船卸し(進水式)は、大道寺が亡くなった3カ月後(2005年11月10日)に行われた。

 1992(平成4)年のある夜――。
 青森市花園の自宅で就寝していた大道寺小三郎に、右翼を名乗る暴漢に突然襲われるという事件に遭った。
 大道寺は寝室から直接、犬の散歩ができるよう常に鍵を開けていて、敵はそこから侵入した。90年代に入り、みちのく銀行の海外進出が本格化するなかで、北方四島問題が硬直状態にあるロシアとの交流事業推進への嫌がらせであった。
 前年、自ら心臓の不整脈からペースメーカーを入れていた大道寺は、予期せぬ格闘から装置の位置がずれたと思い病院で調べてもらった。その結果、ペースメーカーに異常は見られなかったが、肺の影を指摘され、肺を調べているうちに肝臓にも影が認められたのである。いっぺんに二つのがんが見つかり、7月には国立がんセンターに入院し、8月に1週間ほどずらして肺と肝臓がん摘出手術を受けた。
 翌1993年3月、ロシア、中国などへ向けた海外への足がかりとなる人事が決まり、内示のあった数人の若い社員らが青森本店に呼ばれた。
 頭取自ら会議室のホワイトボードに、カムチャツカ半島から日本海を挟んだ朝鮮半島、中国大陸、インドシナ半島までの地図を描き、約2時間を費やして「君たちを送る意義について」と題し講義をした。
 「ロシア、中国、上海はすごく近い。これからは環日本海経済圏の上海、ウラジオストクなどを中心に栄える……」
 そしてなぜ、地方銀行が海外進出を図る必要があるかを説明した。
 「これまでは中央(政治)から国費をもらってきたが、そう遠くない時期に地方の面倒はみてくれなくなるだろう。経済はボーダレスの時代に突入し、青森の企業でも中国やロシアに行って商売をしなければならない時代が来る。だがいまは情報が乏しく商売ができるかどうかもわからない。だから銀行が道筋をつけて、確実に商売のできる環境を作る。まして、いつもの銀行でお金の取引(送受)ができれば安心だ。その偵察隊なんだ、君たちは」
 何人にも頼ることなく、地方は地方同士、隣人として助け合いながら自立し、未来を切り拓く気概を説いた。
 折しもバブル経済がはじけ、青森では大口融資先が無かったことから、みちのく銀行は東京の大手商社に融資をして手痛い目に遭っていた。また、つぶれないという銀行神話が、北海道拓殖銀行の倒産を機に大きく揺らいだ。地方銀行は、その地域で堅実な商いをするという他行を尻目に、大道寺小三郎は積極的に打って出たのである。
 その根底には、あの無責任な戦争を引き起こし、戦後は1960年代後半から90年代にかけて行われた「むつ小川原開発」という国策の頓挫によって犠牲を強いられてきた怒りがあった。数兆円規模の税金では足りず、決まり事のように各行に巨額の融資が割り当てられ、破綻後は銀行に尻拭いさせたことへの反発である。みちのく銀行は約30億の債権放棄をせざるを得なかった。
 大道寺は生来の気性もあったが、不合理なことに対しては相手が誰であれ、もの申すという姿勢を貫いた。よりよい社会を築くため、それは人間としての未来への責任感の現れであった。
 ロシアを中心に着々と医療、文化、教育分野の慈善事業を通じて種を蒔いていたものが少しずつ実りはじめていた。90年代半ばには、極東ロシアにおいて、日本の首相の名は知らずとも「みちのく」「ダイドウジ」の名は市民に広く浸透していた。
 

1992(平成4)年 ゴルバチョフ元ソ連大統領の歓迎祝宴にて
 
 1995年4月には念願のハバロフスク‐青森間の国際定期航空便が就航した。98年の金融危機以降、「国債は返せない」として、世界的に信用を失ったロシアの首都に、翌99年7月、邦銀では初の現地法人みちのく銀行(モスクワ)本店が開設された。つづく2002年にはユジノサハリンスク、03年はハバロフスク支店が開設され、新興国として急速に経済成長を遂げてゆくにつれ、一般住宅ローンなどで業績は堅調な伸びを示していった。
 しかし、大道寺の身体は病魔と闘う日々であった。1996年の春、慢性骨髄白血病と診断されていたのだ。投薬治療により一命はとりとめたが、薬の副作用が足の浮腫という形で現れ、その痛みを和らげようと強い鎮痛剤を注射し、そのショックから2004年5月に緊急入院したのである。
 

1999年12月 初孫に会う(ボストンにて)
 
 翌2005年の春、初孫と面会したときには笑顔を見せていたが、やがて意識が薄らぎ、7月21日をもって帰らぬ人となった。大道寺小三郎、80年と2カ月の生涯であった。
 その潰えぬ夢は、世代を超えた種となって人々の心に根づき、いつしか芽が出て花を咲かせ、実を結ぶときが来るに違いない。
 

 
※主な参考資料:「追憶の彼方に‐大道寺小三郎氏の世界‐」畠山隆一著(2008年)
 
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