大道寺小三郎伝 第5章「種をまく人」2

物上代位
 

弘前相互銀行時代(手前中央は唐牛敏世、後ろで立っているのが大道寺)

 大道寺の弘前高校時代の身元引受人でもあった唐牛との縁は、その後もつづくことになったが、本人は嫌々業務をこなしていた。半年もしないうちに、唐牛の命により主任に昇格してすぐのことであった。
 北海道の根室港を本拠地とする漁船が港内で沈没した。銀行は船主に約3,000万円を貸し付けるにあたり一番抵当権を設定していたことから、保険金が下りることによって未収などは想定していなかった。
 ところが、数日して裁判所から船主が所属する漁業組合が保険金を差し押さえたという通知が舞い込んだ。 船主は漁業組合からも3,000万円の融資を受けていたのだ。
 「やられた!」と、幹部だれもがそう思った。
 当時、大卒の公務員初任給はおよそ1万円。3,000万を現在の価値に換算すると、10億近い金額であり、地方の相互銀行の不良債権としては多大な損失となる。
 法律に精通していた唐牛社長ですらあきらめかけていたとき、大道寺はふっと民法の「物上代位」を思い出した。つまり、船である「物」に抵当権があり、それが沈んでなくなった場合、その「物」に代わり発生する債権である保険金に抵当権が及ぶという規定だ。物の上に代位するという条項によって、抵当権が消滅しなければ、一番抵当権のある銀行は保険金に対しても優先権を有しているという解釈である。
 書棚の隅に忘れかけていた六法全書を再びめくった大道寺は、ひとりほくそ笑んだ。
 さっそく、直属の上司に回収を申し入れた。
 「先に差し押さえられたら無理だな」
 一般的な商習慣から、理解を得られなかった。そこで直接、唐牛社長にその旨を訴えた。
 「この件、なんとか自分にやらせてください」
 唐牛社長も半信半疑であったが、なんとか了承を得た大道寺は、さっそく翌日に直轄の旭川地方裁判所へと向かった。
 二月の旭川は零下30度、吐く息さえ凍った。書類を提出して判事に掛け合った。
 「趣旨はわかったが、船が確実に沈んだ証拠がない」
 大道寺は、あらかじめ北海道新聞の記事を資料として用意していた。
 「新聞記事では〝沈んだ〟とは断定できないんだよ、法的には。船が沈んだと確定して初めて保険金請求権が発生するわけです。確固たる証拠資料があれば取り扱えるんだがねえ……」
 そこで大道寺は、札幌の北海道新聞社本社の編集局長に面会を求めた。アポなしのため2時間ほど待たされたが会ってくれた。
 「君、北海道新聞はうそを書いたことはない。わが社の記事はすべて真実だ。だから、特定の記事についてわざわざ真実だとは書けるわけがない」
 編集局長の名言の前に、二の句が継げなかった。
 大道寺は、それでもあきらめきれずに今度は沈没現場へ行き漁業組合を訪ねたのである。先手を打った組合長は、上機嫌で大道寺を迎え入れた。
 「組合長さん、うちはいろいろ手を打ちましたが今回の件は、おたくさまの勝ちですね」
 「いやぁ、世の中というのは何事も迅速に勝るものはないですな。お気の毒ですが……」
 大道寺が帰途につこうと腰を上げた。
 「私はこれで会社に帰ります。社長に怒られると思うと憂鬱です。組合長さんは港内で沈むところを見られたそうですが〝完全に沈没した〟という一筆をいただけますか。帰ってから社長に引き上げてなんとかしろと責められても困るので……」
 「そんなことでよければ」
 しょんぼりした大道寺に同情した組合長は、さらさらと書いた。
 それを手にした大道寺は、しめたとばかりに旭川へと引き返したのである。
 だれもが不可能だとあきらめていた回収に成功した大道寺は、行内で一目を置かれる存在となった。
 

1960(昭和35)年
長女と入浴する大道寺小三郎家族を連れてのドライブが好きで、大好きな海辺のほかに流星群を見るために山へ行ったりした。

 
 ――法律とは、当事者となるお互いが不利益とならないよう条文化した常識の集大成である。
 法律が飲みこめずに長い間苦しめられたが、なぜかこの件を契機に閃いたものがあり、大道寺は丸暗記に固執していた愚かさに気づいた。たとえば、貸付の際、契約書が交わされ、問題が起きれば訴訟法が適用される。貸し付けた側の債権者を保護し、また取られる側の債務者も保護する建前からなる条文は、権利と義務においてお互いが不利益を被らないよう想定している。条文だけでは煩雑なように思われるが、実際の事柄を有機的に当てはめてみてわかったのである。
 昨日まで辞めようと考えていた大道寺とは、打って変わって仕事におもしろさを感じていた。
 弘前に就職してからというもの、弘高時代の川嶋康司とは再び飲み仲間となり、彼の紹介で小川博子と出会い、交際は急速に深まった。
 務めてから約1年後の1959(昭和34)年、唐牛夫妻を仲人に弘前相互倶楽部(現・藤田記念庭園)にて親戚縁者や行員を中心に約100人を招待した披露宴が催された。
 新婚生活は市役所に近い場所の小さな一軒家を借りて始まったのだが、三日とあけずに部下を引き連れては宴会を催す日々であった。やがて函館の友人、横山道雄が転がり込んできたのである。
 管理職とは名ばかりで、当時の薄給ではそうそう飲み屋へ通うほどの余裕はない。途切れることのない酒飲み客のために、妻、博子は松森町で歯科医院を営む実家へと何度も足を運んだ。
 やがて1960(昭和35)年に長女が、62年に次女が生まれた。日本は高度経済成長の真っ只中にあった。
 
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