大道寺小三郎伝 第5章「種をまく人」1

弘前相互銀行
 

1959(昭和34)年 大道寺小三郎の結婚式での唐牛敏世と、母の大道寺志げ(弘前相互銀行倶楽部/現・藤田記念庭園)

 大道寺小三郎にとっては、気のすすまないまま弘前相互銀行の管理課に配属されて8カ月が過ぎようとしていた。
 同銀行は前身であった「弘前無尽会社」のときに、東北地方で初のエレベーターを備えた「かくは宮川デパート」のある一番町の坂を上りきったところに、昭和元年、鉄筋コンクリート3階建のビルを構えた。いまも当時のまま、弘前市に現存する最古の鉄筋コンクリートの商業ビルとして使われている。しかし、戦後は相互銀行となって業務の拡大につれ、すぐにスペースが足りなくなり、同ビルからほど近い下土手町の「角み小路」に曲がる角にあった呉服屋を買い取って、1階を本店営業部、2階に管理課と検査課を置いた。
 管理課は課長以下12人体制で、主な業務は不良債権の管理回収である。当時の相互銀行は、旧国立系の普通銀行が貸せないような信用力の低い取引先が多く、競売、差し押さえなどの法的措置、またはそれらにともなう各支店に対する管理回収の指導、監督、命令など多忙を極めていた。
 社長であった唐牛敏世は、1879(明治12)年、黒石藩(弘前藩の分藩)の家老職を務めた家系に生まれた。地元での教員生活に飽きたらず、東京の明治法律専門学校(現・明治大学)に進むが、その後は東京から北海道へと放浪した。その間、コンブの等級を決める仕事に就いて、静内の漁業組合にいた時期に大道寺小市と知り合ったのである。
 田舎町ゆえ、教養のある唐牛は小市の話し相手として気に入られ、ほぼ毎晩のように夕食を共にするような間柄になった。
 その唐牛が静内から忽然と姿を消し、小市と再会するのは10年ほど経ってからの昭和3年のことであった。唐牛はその間、函館の水産業者を拠点に、ニシン漁の仕込みに必要な資金を融通し、漁が終わると金利分を乗せて回収する仕事に携わったり、商人宿を経営したりしたがどれも成功を見なかった。失意のどん底に喘いでいたあるとき、弘前へ行く機会があり、そこで「無尽」という金貸しの話を聞く。何十人かのグループで月々少額のお金を積み立て、ある程度貯まったらそのお金を欲しい人が借りる。借りた人は、利息相当分を加えて返し終わるまで払うというシステムだ。十分な資金力がなくとも、このやり方なら、自らの人脈や才覚で商うことができると確信した唐牛は、さっそく設立準備を行い、幼なじみで代議士の支援などによって、1924(大正13)年に弘前無尽会社を設立した。
 庶民の唯一の金融機関として、見る見るうちに急速な発展を遂げ、支配人、取締役、専務を経て40(昭和15)年に社長に就任。戦後は相互銀行法施行にともない、1951(昭和26)年に弘前相互銀行に転換しそのまま社長職に就いた。ときすでに79歳をむかえており、その後、1976(昭和51)年に青森市に本店のあった青和銀行との合併により、普通銀行へと転換した「みちのく銀行」の初代頭取に就任した時点では97歳。現役の頭取最高齢として各界から注目を浴びることになる。
 再会は偶然だった。父、小市がスイス留学から帰国後、生家のある山形へ報告へ行く途中の奥羽本線の車中であった。そしてまもなく、不義理の詫びにと津軽塗の小さなテーブルが贈られてきた。
 「400円が10年経って4円くらいのテーブルになった」 母、志げはそう言って揶揄したと、後年、大道寺小三郎の回想録に記されている。
 
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