大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」3

北洋博覧会
 

「北洋博」の宣伝カーとキャンペーンガール(デシタル「函館市史」函館市中央図書館所蔵)

 1954(昭和29)年、函館市は北洋漁業再開を契機に「北洋博覧会」を開催することになった。~その夏は札幌で国体も開かれる予定だった。
 ある日、市役所勤めをしていた友人から相談を持ちかけられた。
 「北洋博覧会をやるのはいいんだけれど、残念ながら港内の遊覧船がない。そこで船の好きなお前を見込んで頼みにきたんだ。遊覧船をやってくれないか」
 失敗続きで集中力が途切れていた小三郎は、渡りに舟とばかりに、一人合点して小躍りした。
 さっそく父が残した遺産のうち、札幌にある北海道大学附属病院の隣地約500坪を売却して資金に充てた。坪2000円の計100万円で函館の船具屋に売ったのだ。
 登記にあたり司法書士を訪ねたときだった。 「いやいや、バっカに安いもんでないかい。いまあの辺で坪1万円以下の土地はないよ」
 小三郎は、世間知らずを恥じて肩を落とした。
 そしてすぐさま造船所にかけあったところ、北洋の好景気の影響で100万円では新造船にはまったく足りないことがわかった。仕方なく中古を探して、ようやく見つかったのは日魯漁業で本船とキャッチャーボートとの連絡艇に使っていた全長8メートルほどの船だった。
 それを買い入れ、優雅な遊覧船に仕立てるために自動車用のA型フォードのエンジンにのせ換えたりと、3カ月ほどをかけて改造した結果、小三郎は遊覧船のオーナーにふさわしくメカニズムすべてを習得した。
 ところが、函館市から慫慂されたにもかかわらず、営業の許認可がなかなか下りなかった。
 海運局、函館水上警察署、青函連絡船、船舶管理局、函館港管理局……10カ所にも及ぶ機関をたらい回しにされたあげく、「○○がお受けすれば、当方もOKである」といった同じ結論に終始し数カ月が過ぎた。
 半ば諦めかけたころ、市役所のある人物から助言を得て一番偉そうな役人を行きつけのキャバレーに招待し、とことん接待をしたところ一挙に道が開けたのである。
 小三郎を船長に、横田と父の運転手をしていた沼澤の長男で、のちに小三郎の運転手となる沼澤静一の3人で運行することになった。
 7月10日、函館活性化の起爆剤と期待された「北洋漁業再開記念北海道大博覧会」が開かれた。総予算約3億円、函館公園、五稜郭公園を会場に8月31日まで延べ53日間、入場者数は目標の60万をはるかに超えた80万人となり成功裡に終わった。
 だが、遊覧船の客足は想像以上のものではなく、まもなく思わぬ終焉をむかえたのである。
 
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