大道寺小三郎伝 第4章「彷惶」1

戦争の傷跡
 

竹内俊吉(1900~86) 東奥日報社を経て政治家に。青森放送会長、青森県知事などを務めた。長男の黎一(1926~)は弘高時代に大道寺より1期上級で、のちに政治家となり科学技術庁長官などを務める。

 敗戦によって銃弾に倒れる恐怖はなくなったが、父の死をはじめ、大道寺小三郎の周囲でも戦争の傷跡は深く残っていた。
 さらに戦中、戦後と想像を絶する粗末な食事と重労働によって、結核に冒され死んでゆく人々が大勢いたのである。
 弘前高校では、時流にのった教育者の身勝手さが横行した。
 「鉄道は軍事優先だから、きみたちは故郷に帰ってはならない」
 敗戦の前年、冬休みを前に校長はそう命令を下した。
 文部省も禁止までは指示していなかった。増幅した事なかれ主義の命令に、自治会委員長の小三郎をはじめ多くの寮生が強い反発を示した。
 「空襲などでいつ死ぬかもわからないのです。だから両親と会いたいものもいます。なんとか許可をください」
 学校側と1度だけは話し合いの場をもったが、2度目は「だめなものはだめだ」と聞く耳さえもたなかった。実際には、戦局が悪化するにつれ旅客列車はガラ空き状態だった。
 小三郎は、敗戦を機にあれもこれもみな戦争の犠牲者なのだと理解しようとつとめたが、醜いものへの怒りや不快感の矛先は自然、自治会活動へと向けられ、真実を希求する若き魂は朝日討論会へと捧げられてゆく。
 1948(昭和23)年、高校3年になった小三郎は討論会に備えた勉学に本腰を入れはじめた。片っ端から関係する本を読みあさろうにも敗戦直後のため適当な参考書が見つからなかった。そこで青森県に在住する識者の門を叩くことになった。そのなかの一人に、県下随一の博覧強記で知られ、のちに大蔵政務次官、青森県知事となる竹内俊吉がいた。竹内は地方紙の取締役から県議、さらには戦時中に国会議員となり、戦後は公職を追放され浪人の身であった。
 小三郎は函館の実家と行き来するたびに、青森の竹内家に立ち寄っては政治や経済の話しを聞いた。
ある日、竹内はこう言った。
 「お前なぁ、東京だとやりにくいから、どこか田舎の大学にでも入って県会議員にでもなれよ。そのキャリアをもって青森に帰って来い。そうしたら僕の地盤をやる」
 自治会活動や討論会でめきめきと論戦力をつけていた小三郎は、次第に政治の世界に興味を抱くようになっていた。
 「無能教授追放運動」と称してストライキを実施し、戦時下とはいえ生徒に対し非情な命令を下した校長の追放に成功した。さらに全学連の結成大会にも出席するほど自治会活動に熱をあげていた。
 そのあげくが出席日数不足の落第である。
 翌昭和24年の春、小三郎は通常3年間のところ、留年を2度経験して5年間在学した弘前高校をあとに仙台の東北大学法学部に入学した。
 すでに、共産主義が幅をきかせていた自治会運動に興味が失せていた小三郎は、函中の1年先輩にあたり、弘高から先に東北大学の経済学部に進み、新聞部の編集長をしていた田沼修二がいる新聞部に入った。 当時の大学新聞部の評価は高く、言論の自由という名の下に戦後の民主化を牽引していた。同時に入部したのは、東京出身で経済学部の松田二郎であった。松田とは親が医師という共通点からか気が合った。長い休みには函館の実家へ連れて行きともに遊んだ。
 高校時代と違い、出席簿のない大学生活は講義などそっちのけであった。
 午前10時ごろになると一番丁の門から入り、学生部の奥にある新聞部の部屋へと直行した。15人ほどの部員はそこで昼飯を喰い、原稿を書いたり、雑談を交わして過ごす。部内にも右派と左派がいて、口論の末にケンカとなって雑誌が飛び交うなどは日常茶飯事であった。
 夜はもっぱら三越前の屋台で、カストリやドブロクを飲んでは泥酔する日々を過ごしていた。
 その新聞部にはふたりの女性がいた。そのうちの文学部のN嬢に、小三郎は秘かな想いを寄せた。
 小三郎の下宿は仙台駅から近い花京院にあり、彼女の邸宅は歩いてすぐの場所にあった。
 N嬢の父は法学部教授で新聞部の担当部長をしていたが、開放的な人柄で学生を自宅に招いては酒やウイスキーを振舞ってくれた。
 
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