大道寺小三郎伝 第3章「動乱」2

高校1年生の初冬
 

講堂とその屋根の上から小三郎が撮った岩木山
 
 
 高校1年生の初冬――。いよいよ本土が空襲を受ける可能性が高まった。
 小三郎らの昭和19年入学組には、八戸・島守地区での勤労動員の命が下った。
 作業は軍人4、5人に生徒4、5人単位でひと組が構成され、米軍の上陸を迎え撃つという名目で、海岸線と併行に伸びた小高い丘状の山中に要塞となる洞穴を多数穿つというものだった。直径3メートルほどのトンネル状の穴を掘るため、生徒らはもっぱら単純労働に向けられ、岩盤に発破を仕掛け、砕け散った石片(ズリ)をモッコで壕外に運ぶ役目を負わされた。慣れない労働から担ぎ棒が肩にくい込み、皮膚が擦りむけて血まみれになった。しかし、10日も経つとなかば麻痺状態となり次第に痛みもやわらぐのであった。
 生徒は分散して民家に泊まらされた。小三郎は畳敷きの部屋もない農家をはじめて見た。家具らしいものも見当たらない。便所は戸外にあり、入口にはムシロが下げられ、ほか三方は粗板で囲われ、金隠しのない穴が真ん中に空けてあった。中にはトイレ用紙の代わりに木を薄く割った長さ10センチほどの板切れが置いてあり、用が済んだらその板切れでそぎ取り、使用後は肥料用にと別の箱に入れるといった仕組みだ。
 同じ青森県でも、津軽と南部の生活の違いを身をもって知った。
 「俺ンところに来てみろ」
 隣の宿舎の連中の家に行って見ると、便所の形は同じだが問題は用を足した後は荒縄で擦って拭くのだという。
 食事はといえば、兵隊方式の「メシ上げ」といわれる炊飯所が一カ所あって、当番がバケツなどの容れ物を持って宿舎に割り当てられた分を受け取りに行く。雑穀だらけのめしと味噌汁にタクアンだけで、育ち盛りの生徒は日に日に痩せこけていった。
 島守での生活は翌年の3月まで続き、学校へ戻ってはきたものの形式だけの進級試験が行われ、昭和19年入学の230人は一人の落第生もなく全員2年生に進級した。


3人組(後ろが小三郎)
 
 ところが、新年度早々またも勤労動員の命が下る。次の行き先は日本最大の軍需工場であった日立製作所(茨城県)だ。その規模たるや海岸線と平行に約6キロにわたり工場群が続き、従業員数は4万人を超えていた。
 徴兵年令は20歳からであったが、戦況の悪化とともに引き下げられ、小三郎が高校生になった年には満17歳以上の者とすると同時に、17歳未満の志願も可とする根こそぎ動員が行われた。卒業まで猶予が認められていたのは高等学校の理科系と師範学校生であったが、兵役に就かないすべての学生には勤労動員が義務付けられていった。
 小三郎の2学年は、つい先日まで旧制第一高等学校の生徒がいたという日立社員の独身寮(多賀寮)が割り当てられた。
 食事はアルミの皿にご飯と麦、それに芋が混じったものが薄く盛られ、朝飯にも不十分な量でありながら昼飯兼用を強いられた。
 2クラスに編成されていた理乙組は、主に旋盤を製造する工場に回され、小三郎のグループは魚雷運搬車の車輪軸に使われる直径10センチほどのベアリング(軸受)作りの部署に配属された。しかし、想像以上に極度の精密技術を要する仕事で、数時間かけて作っても品質検査ではほとんどが不合格となる始末であった。
5月1日、小三郎は20歳を迎えたが戦局は混沌としていた。現場では熟練工が次々と徴兵されていき、その結果できた製品の8割方が無駄となっていった。
 労働力不足は日を追って深刻になり、女学校生までもかりだされた。勤務時間は朝6時から夕方6時までの1日12時間。さらに4時間残業すると夜食が支給される。精米度の低いコーリャン飯は、ほとんど消化されぬまま排出されるような代物だったが、四六時中空腹をかかえた生徒にとって食後の満腹感にはかえられなかった。
 そんな栄養状態であったから、夜は各担当の旋盤だけが回っていて作業員のほとんどは、周辺に隠れては倒れ込むように眠り込んでしまう。毎晩、数千坪もの大工場の何百台もの旋盤機だけが、音を立てて回っているだけの頽廃した空気のなかに、日本の戦闘行為の無謀さを小三郎は感じとっていた。
 
 ある日、小三郎は相撲部と野球部の部長を引き連れて町はずれのタバコ屋へと向かった。
 出てきた痩せこけた貧相な中年の男に、小三郎はこう切り出した。
 「つかぬことをお伺いするが、ここに第一高等学校の生徒全員のタバコの配給登録がしてあると耳にしたが……」
 脇には巨体の相撲部長がニタリとほくそ笑み、野球部長は鋭い目つきで睨みつける。店から上がりかまちに正座して応対した男は見る見るうちに顔から血の気が引いた。
 「いやね、ぼくらはこの何カ月分かのタバコがどこに行ったのかを咎める気持ちはないんだ」
 小三郎は落ち着き払った物言いで迫った。
 配給統制違反は重罪であった。
 米、酒、タバコなど生活必需品はすべて配給制であり、大部分の寮生は喫煙習慣があったが、日立に来てからはなぜか差し止められていた。その配給を受けるためには移動証明書が必要だったことから、小三郎は一計を案じたのであった。
 

昭和20年の卒業式。講堂を背景に「アインスタイン」(訛り:本来「アインシュタイン」)とあだ名で呼ばれていた写真屋が撮影するシーンをその後ろから小三郎が撮った。
 
 小三郎らはあまりの粗末な寮の食事の処遇に、嫌気をさした前任の第一高等学校生らが、あらゆるコネを伝って処遇改善を求め他部署へ移ったのだと考えた。混乱の最中だから、一高生の分は日立多賀のタバコ屋にそのままあるに違いないとふんだのである。
 目の前の男の膝は震え、恐怖のあまり顔は引きつっていた。
 「うちの学生も何かの都合でタバコ移動証明書を持ってこられなくて困っているんだ。どうだろう、一高生の分をうちに回してくれればそれでいいんだが」
 男は、額を畳にこすりつけるように伏して言った。
 「ありがとうございます。なんとか穏便にお取りはからいください。タバコは配給日に寮までお届けします」
 配給本数は1人につき1日5本。買値は10本入れ1箱につき15~20銭程度。小三郎は、一高生の喫煙年齢に達した百数十人分のタバコを一手に獲得することができた。工場内でも工員らが1本あたり50銭から1円で融通しあっていたほどで、ひと月の下宿代が15~20円の時代にあってタバコは貴重品の最たるものであった。
 小三郎は、タバコ獲得作戦の成果を全寮生に告げるやいなや拍手喝采をあびた。
 「ただし、世の中は平等でなければならない。諸君のなかには5本を欲する人もいれば、一服程度でよいという人もいる。その必要に応じて買値で配給したいと思う」
 そう皆の前で宣言し、A、B、Cの3段階ランクを設定し、5:3:1の配給割合を決めた。小三郎らと仲のよい順で色分けをした結果、自然、小三郎を頂点とした支配権が確立していったのである。
 一方、生徒は日立製作所の幹部宅に夕食に呼ばれる機会が1、2度あった。
 そこには目にすることも口にすることもない牛肉や、飲みきれないほどの清酒があり、信じがたい世界があった。飢えている生徒らは無我夢中で頬張った。だが、その瞬間はありがたく感じたが、普段の粗食に戻ると魔法はすぐにとけて、あまりの落差から日立製作所そのものに激しい反感を抱いていった。
 
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