旧制函中時代
当時、函館は人口22万人を超え、東北以北では最大の町だった。小学校の最終学年の6年生になり、小三郎は旧制の函館中学の入試を受けたのだが、こともあろうに口頭試問の席で係官の先生と口論となり烈火のごとく怒らせてしまった。そのあげくに小三郎の主張が間違いであったことをあとで知るのであった。
結果は落第――。
一年遅れで中学に入ると、すぐに5、6人の仲間ができて、年長で経験や知識に長けた小三郎はすぐにガキ大将となった。母の志げもまた友だちを連れてくることを歓迎し、なかには勝手に冷蔵庫を開ける子もいたぐらい開放的な家庭であった。
思春期は人恋しく、寝る間際になると仲良しの友人に会いたくなる小三郎だった。
朝になると、毎日勝手口に迎えに来ていたK君は小三郎をボスとして慕っていたひとりで、温厚でまじめな性格からのちに医者となり、志げの最後を看取ったのであった。
小三郎は毎晩のように往診に追われる父の背中を見て、その大変さから本心は医者にあこがれを抱くことはなかった。ただ、漠然とではあったが将来は医師を志さなければならないとは感じとっていた。しかし、生き物を傷つけることのできない性格からカエルの解剖すらできない小三郎は、到底血を見ることなどできそうになかった。そのころになると植物に興味を抱き、病院の中庭に温室をこしらえてもらいペチュニアなどを栽培しては病院内で自慢をしていた。
母、志げはふさぎがちな患者の気分を和らげようと、待合室から望む庭にチューリップ、ボタン、シャクヤクなどを植え毎年の手入れを欠かさなかった。
函館中学時代の小三郎
そのころ小三郎は、とある秘密を知った。
ピアノの部屋が書斎と呼ばれていて、壁の片面が全部本で覆われていてドイツ語の医学書や百科事典などで埋まっていた。小三郎が読破しようとした矢先、その医学書のなかから、それまで見たことも想像したこともない春画の浮世絵が出てきたのである。それからというもの、家の人には内緒でそれを目当て次から次へと仲間がやってきたのだった。
しかし世相は暗い方へと突き進んでいった。1941(昭和16)年12月8日、日本のハワイ真珠湾攻撃によって太平洋戦争がはじまった。
翌42(昭和17)年、小三郎が17歳のころ、桑島恭子(忠一の長女)は山形県女子師範学校(現・山形大学教育学部)を卒業して長井で小学校の先生をしていたが、志げから強く望まれてその年の4月に長男・小太郎と結婚し北の大地での新婚生活がはじまったのである。
そして、次男の小次郎は旧制・岩手医学専門学校へと進み、小三郎は1944(昭和19年)に医学校ほか何校かの試験を受けたが、結果的には青森県弘前市にある旧制弘前高等学校の医学進学課程・理科乙類に合格した。
・・・第3章に続く
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