大道寺小三郎伝第1章「ふたりのロシア」1

鉛色の雲間から


サハリン博物館(旧・樺太庁/ユジノサハリンスク市)

 鉛色の雲間から、わずかに差し込 んだ陽光にありがたさを覚えるほど、暗く灰色の日々がつづいていた。
 「いまちょうど12時だ。そのままずうっと上にあげて。そうそう、周辺と一緒にあの太陽も撮って」
 大道寺小三郎はビデオカメラをまわしている同行の部下に、アングルをこまめに指示した。
 昼の時間が少しは長くなったとはいえ、北緯47度に近い真冬の空の太陽はあきらかに低い位置にあり気温は零下10度を下回っていた。
 陽光は期待したほど長くは照らず、すぐに厚い雲に覆われてしまった。

 犬の遠吠え、時おり行き交う車や白い息を吐きながら歩くロシアの人々が映っているのは、ソビエト連邦が崩壊した翌年の1992(平成4)年2月15日のユジノサハリンスク市街の風景だ。ユジノサハリンスクはロシア・サハリン島の南部にある人口約16万の街でいまはサハリン州庁の所在地だが、日本領時代は豊原と称し樺太庁が置かれていた。主な産業といえば水産加工や木材パルプと家具製造などで、大通りから一本路地を入れば閑静な住宅地があり氷雪に閉ざされながらも極東に生きる人々の暮らしが息づいている。
 南北に約950キロの細長いサハリン島は間宮海峡(タタール海峡)を挟み、ユーラシア大陸との最狭部で7キロほどしか離れておらず、古くから氷結を待っていろんな民族が毛皮などを求め行き来していた。
 現在、サハリン州(島)全体の人口は約50万人。シベリアをふくむユーラシア大陸の極東地域は厳しい自然条件下、長い間人間の生活領域からは見放されていた。
 にわかに注目されはじめたのは、大陸棚に眠る豊富な石油と天然ガス資源をめぐり、1970年代に入って日本、米国そして中国などが複雑に絡み熾烈なエネルギーの争奪戦に突入しようとしていたからである。そこで政治経済の中心を担うべく、ユジノサハリンスクにビジネスセンターの建設が合弁企業により計画され、六階建の白い大きなビルが竣工しサヒンツェントル(サヒンセンター)と名付けられた。その開所式に招かれた一人が青森県の地方銀行、みちのく銀行第三代目頭取の大道寺小三郎(当時66歳)である。大正生まれにしては身長173センチと堂々たる体躯であるが、一見、厚い眼鏡で覆われた表情は色白で神経質そうな印象をあたえた。ただその奥の瞳は、ときに少年のような輝きを放ち、周囲にいる人々を魅了してゆくのだった。

 昼の歓迎会式典では民族衣装をまとった舞踏団がアコーディオンほか伝統楽器を奏で、カリンカなど軽快なロシア民謡にあわせて歌い踊った。やがて舞踏団の輪に導かれ、同行した日本人はロシア人と共に踊りリズムに合わせて拍手をおくった。
晩餐会は会場をサヒンツェントル内の大ホールに移し、北海道からも酪農関係者はじめ多くの日本人関係者が列席した。サハリン州知事の挨拶のあとに大道寺が立った。
 「ドーブルイ!ヴィーチェル!ミニャー ザボート ダイドウジ ミチノクバンク(今晩は、みちのく銀行の大道寺です。)はじめて20年前にロシアに来て以来、この2、3年はとくに仲良くやっています。ハバロフスク、ウラジオストーク、ナホトカ、イルクーツク、どこの街もいま日本と一生懸命交流をしていますが、このような立派なビジネスセンターを造った町はありません。やはり、何か事をなしとげようとすれば道具は必要です。ハバロフスクもたくさんの商社が進出していますが、みなホテルの一室やアパートメントを借りて商売をしています。その意味でユジノサハリンスクのビジネスセンター設置に関して敬意をはらうものであります。ロシアは皆様のように優秀な方々がいて、たくさんの資源と工業力があります。ですから、システムがうまい具合に自由主義へ移行すれば、アメリカンスキーと同じような大きな生産力を持つ国になります。日米は1万キロも距離がありますが、ロシアは北海道、青森とわずか1千キロです。ヨーロッパはすでに国境がありません。ロシアと日本の国境もあと20年ぐらいでなくなると思います。そうしたとき、同じ生産力をもった国が1万キロと1千キロとでは、どちらと仲良くするかは明らかです。みなさん、わかるでしょう。ロシアはいま大変困っていてご苦労も大変でしょうが、みちのくバンクは皆さんから1カペーカも儲けようとは思っていません(通貨単位:ルーブルの100分の1/当時は1ルーブル=約30円)。将来は商売をさせていただきたいですが、いまはよき隣人として信頼に足るお付き合いをしたいのです。ロシア共和国とサハリン州の発展と、それから今日お集まりの皆々様のご健康と発展を、そして青森県とより仲良くなることを祈りまして、あいさつを終えます。スパシーバ(ありがとう)」
 全員が起立し、会場からは万雷の拍手がわき起こった。

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