大道寺小三郎伝 第2章「北の大地」3

ロシア人の親切
 


愛犬カピ
 
 小市は、ことあるごとにシベリア鉄道の旅で出会ったロシア人の親切を説いた。日本酒を好んだ小市は、晩酌の折にはその様子を具体的に何回も子どもたちに話して聞かせた。また、おやつとしてロシア人からしてもらったイクラや砂糖をかけたパンをあたえた。また、牛乳が6銭の時代に子どもの情操教育には犬がよいことをスイスで学び、当時は珍しいテリアを20円で買いあたえ、エクトル・マロの「家なき子」に登場する犬と同じカピと命名し、欧米と同じように家の中で飼った。
 志げは小三郎に言った。
 「犬はなにも言えないから、つねになにを欲しているかを飼い主が考えてやらなければならないんだよ」
 エサは人間が食事をする前に必ずあたえ、寝るのも一緒だった。
 小三郎はもの言えぬ犬に細やかな気遣いを忘れなかった。
 大道寺家の食事は、小市を中心に大きな座卓を囲み、小市のあぐらにはバスタオルを敷いて犬をのせ、家族ほか看護婦やお手伝いさんも分け隔てなく全員が同じ食卓を囲んだ。
 函館ではイカ売りが、早朝から「イカ、イカー」と叫びながら港に揚がったイカを売り歩いていたから、地元では鮮度のいい半透明な刺身が食膳にのった。
 冬場は山形の母の兄である五郎から、飼っている鯉の甘露煮を送ってきたが、海辺の魚に慣れた食卓では不評であった。志げは漬物専用の部屋に、身欠きニシンとキャベツのニシン漬、昆布を入れた赤カブの千枚漬、鮭のすし、塩辛などを毎年欠かさず漬けた。
 小市は貧しい患者からはお金をもらわなかった。カルテにドイツ語で「フライ(英語のフリー)」と書くとタダのしるしだ。薬局にいる志げが小市のところへ確認に来て「この患者さん、フライですね?」と訊く。そういう患者からは、お礼にと正月には鶏が届けられた。それを志げはきれいに捌いてとりわけ、その骨を煮込だスープを一升瓶に数本作り正月の料理用にした。また、大工さん手製の板に志げが百人一首を書いてオリジナル・カルタを作り、くわえてトランプは家族のほかに看護婦らも混じっての正月の恒例行事だった。
 ときにはフライパンを重ねてオーブンにしたて、カキのグラタンを作ったり、ドーナツのおやつもあり、紅茶はリプトン、ココアはバンホーテンがつねにあった。
 

1932(昭和7)年、函館・若松町自宅の中庭にて(下段左から父・小市と4女・洋子、右は小学1年生の小三郎を抱いている長男・小太郎。後ろ左から長女・静子、次女・節子、3女・由利子、次男・小太郎 )

 小市は、患者の要請に断ることなく毎晩のように往診へ出かけるという働きづめの日々をおくっていた。当時、市の指示で街中の野犬が撲殺され、子どもの前でも容赦なく野犬狩りが繰り広げられていた。それを見かねた小市は、市庁に対し激しく抗議した。
 志げは、月初めの健康保険の書類作成などの医療事務と薬局をきりもりし、子どもたちの弁当も毎朝欠かさずつくった。その後は患者を受け入れ、午前10時の一服休みには茶の間に帰ってくる小市に欠かさず玉露を淹れる。食事に繕いものまでこなし、カピが毛の薄い犬だったので、冬には毛糸で防寒着を編んで着せてやったりした。ひび割れた手にはベルツ水という、東京帝国大学医学部に招かれたドイツ人のベルツ博士が作った化粧水を自ら処方して塗ってしのいだ。
 小市がヨーロッパから買ってきたものは、大きなものではバラ模様の象嵌が美しいピアノのほかさまざまなものがあり、レントゲン室以外の蔵は貴重品を入れておく物置に使われた。
 
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