大道寺小三郎伝 第2章「北の大地」2

函館市で診療所開設
 
 

大道寺病院(昭和15年頃・函館市新川町)
 
 
 1931(昭和6)年、小三郎が6歳になる前、小市は函館市若松町で診療所を開設した。それは民家を3軒ほど足したようなところで蔵が2つあった。医院裏の蔵の1階はレントゲン室で、自宅を挟んだ裏の蔵は座敷となっており看護婦が使用していた。1940(昭和15)年には新川町に敷地は400坪、建坪300の木造2階建、病床が20以上を備えた函館一の規模を誇る病院となった。看板には「内科、小児科、産婦人科、ドクトルメジチーネ、大道寺小市」と掲げた。暖房は石炭を燃料にしたセントラル式のボイラーからスチーム(蒸気)をラジエーターに行き渡らせ、薪と石炭ストーブと併用していた。
 上の4人の子は親戚を頼って山形県長井市の学校へやるなど、子どもたちの教育、交通環境を考慮した決断であった。当時、鉄道では静内から函館まで約10時間を要していたからだ 。
 小太郎と小次郎は母、志げの長兄の子で、のちに山形県の長井小学校の校長から町長を歴任した桑島忠一宅から中学へと進み、静子と節子は仙台医学専門学校(東北大学医学部の前身)で魯迅と机を並べたこともある、同じ長井に眼科を開業した志げの兄、桑島五郎宅へあずけられた。

 

大道寺小三郎、3歳頃(静内時代)

 小三郎は小学校へ上がるわずかな期間、メソジット系の遺愛幼稚園分園に洋子と一緒に通った。クリスマスになると聖ハリストス教会のそばにある本園に行ってキリスト生誕行事を祝った。その席で小三郎は、キリスト生誕を祝うせりふを皆の前で言うはずだったが、順番が回ってきた途端に上気して頭が真っ白になり、ひと言も発することができなかった。
 ある日の夕方、突然泣き出した小三郎は母親がいくら慰めてもやまなかった。志げは久しぶりに小三郎を背中におぶって家の回りを歩いた。
 「小三郎さん、どうしてそんなに泣くの、教えてちょうだい。なにが悲しいの?」
 小三郎は答えず、またひとしきり泣いた。母志げは、幼少時から「さん」付けで呼んだ。
 「お母さんにだけはこっそり教えてよ、誰にも言わないから」
それにも答えず泣き通したが、小一時間もしてから思い切って訊ねた。
 「おかあちゃんも、死ぬの?」
 その日、入院患者の誰かが病室で死んだという話しを耳にした小三郎は、看護婦から人間は誰でも必ず死ぬものだと聞かされた。
 死という概念が急に迫り、大好きなおかあちゃんも死ぬのだと考えだしたときから泣き出したのだった。
 しばらくの間、無言だった志げは、ほがらかな声で小三郎に告げた。
 「小三郎さん、なんてバカなことを考えているの。ほかの人は死んでも、お母さんは死なないんだよ。絶対に死なない」
 途端にうれしくなった小三郎は、背中から飛び降りてスキップしながら母の手を握りしめて家路についた。
 志げは病院の薬局を任され、家と病院一切の経済をすべて支えながら7人の子どもを育てる忙しい日々に追われていただけに、想像もしなかったわが子からの言葉がうれしく、終生忘れることはなかった。
 幼少時代の小三郎は、色白でもの静か、きゃしゃな体つきで運動が苦手。本ばかり読んでいる気の弱い子どもであった。友だちにいじめられて泣いて帰ってくると、2歳年下だが体が丈夫で男勝りの洋子がかばうほどであった。
 「ふたりが替われるものならよかったのに」
 周囲からは何度となくそんな言葉が囁かれた。
 年が近いこともあって、「小三郎ちゃん」「洋子ちゃん」と呼び合った。
 函館に移った年の秋。奉天(現・瀋陽)北方の柳条溝の鉄道爆破事件を契機とする日本の中国東北侵略戦争がはじまった。いわゆる満州事変からはじまる15年戦争の第1段階であり、翌32(昭和7)年には帝国陸軍は満州国を樹立し華北分離工作を経て泥沼の日中戦争へと向かってゆくのであった。
 
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