大道寺小三郎伝
目次
1.ふたりのロシア
  鉛色の雲間から
  センター長が挨拶
  S支店長に番が回ってきた
  1927(昭和2)年2月
2.北の大地
  大道寺小三郎の父
  函館市で診療所開設
  ロシア人の親切
  小学生時代
  旧制函中時代
3.動乱
  ミッドウェー海戦以降
  高校1年生の初冬
  昭和20年の敗戦
  自治会活動
4.彷惶
  戦争の傷跡
  司法試験
  北洋博覧会
  洞爺丸
  高田屋嘉兵衛
5.種をまく人
  弘前相互銀行
  物上代位
  みちのく銀行誕生
  極東ロシア〜死去
 
5.種をまく人 みちのく銀行誕生
1966(昭和41)年、函館の大道寺病院を継いだ小次郎が48歳で亡くなり、その後まもなく義兄の杉本信夫も急死したため翌年に閉院となった。
1970(昭和45)年、大阪で万国博覧会の開催が決まったころ、大道寺は着実に業務をこなし手腕を振るって業務部長になっていた。取引先を募って万博の団体ツアーを組もうと企画し、月々の定期積立を考案した。キャッチフレーズは月々千円で万博を見よう!≠ナあった。旅行業務は専門会社に委託し、売り出しから数カ月で1万6,000人の定期預金者を獲得し大ヒットとなった。
1972(昭和47)年、病床にあった母、志げが85年の生涯を閉じた。大道寺小三郎47歳の秋のことである。
やがて取締役となった大道寺だが、そのころになると仕事上超えることのできない壁にぶち当たっていた。
弘高時代の同期が医師となり、開業する際に融資の機会を得ようとお願いにあがるのだが、相互銀行法の制約があるために社会的信用はあまり高くなかった。たとえば、大企業への融資は、総額の20パーセントという制約も業績の足かせとなっていた。各県とも旧国立銀行の流れをくむ地方銀行が最大の金融機関としての地盤を築いており、青森県では青森銀行がその地位にあった。
「お前とは付き合ってもいいが、相互銀行とは取引するなというのが親の遺言だから勘弁してくれ……」
普通銀行への移行――。
それは唐牛社長にとっても積年の夢であり大きな課題であった。
水面下での合併話はあった。
どんな分野にも精通していた知識の源泉は読書。旅先でも欠かさず1週間に4、5冊のペースで読破していた。
1974年から乗った愛車「トヨタ・マークU」

青森市に本社のある青和銀行である。だがその当時、青和は不良債権の発生から、全国で唯一の大蔵省管理銀行となっていて弘前相互銀行内には反対意見が根強かった。
しかし、1969(昭和48)年の夏には合併話は決定され、唐牛は承認を得るべく仙台の東北財務局長へ報告した後、全国相互銀行協会会長のところへ挨拶に伺ったのだが、その後思わぬ抵抗に遭う。
「弘前相銀ごときが普銀転換するのなら、上位10行くらいを単独で普銀転換させてくれ」
その会長は弘前の動きに乗じて大蔵省にねじ込んだのだった。大蔵省としは、全国の相銀がいっせいに普銀転換を図れば、中小企業対策に影響がでることを危惧していたのだ。
大道寺は翌年、東京支店長を命ぜられた。そして、すでに90歳をこえていた唐牛は月1回、陳情のため上京。その唐牛のおもとをし、大道寺は通訳兼代弁者としての役割を果たした。
一方、依然として合併に強く反対する行内の勢力は労働組合を中心にくすぶっていたが、事あるごとに大道寺は強い姿勢でのぞんだ。
大道寺は高校、大学時代のつてを頼り、田中角栄、福田赳夫、大平正芳ほか、大蔵官僚出身の参議院議員の鳩山威一郎、その秘書を務め後に大蔵大臣となった藤井裕久、森嘉朗など大物政治家との親交を深めていった。
なおかつ、合併によって店舗を拡大せず、逆に削減するという案を持ち出し唐牛の了承を得た。縮小を前提にすれば、ドミノ式に普銀転換したい他行の動きを牽制でき、大蔵省も納得すると読んだのである。
また、金融専門紙『ニッキン』は1975(昭和50)年に合併転換を推奨するキャンペーンを行い、全相互銀行と地方銀行のトップにアンケートを実施し、大多数が賛成といった内容を掲載したことも行政当局に安心感を与えていった。
1976(昭和51)年3月、大道寺は本部の取締役総合企画部長に就いて合併業務の詰めの作業に尽力した。そうして迎えた同年10月1日、ついに青和銀行との合併が実現し、資本金28億円、預金量4,175億円、従業員数2,159人と、青森銀行と双肩を並べる規模の「みちのく銀行」がようやく誕生したのである。
表面的には対等合併としたが、青和の約2.5倍の資本比率で初代頭取には唐牛敏世が就任し、中身は普銀をのみ込むといった形での異例ともいえる転換であった。公募から選考した行名は日本の銀行では初のひらがな表記とし、スローガンは唐牛の経営理念を受け、大道寺の発案による「家庭の銀行」とした。
97歳の頭取として全国の経済人から注目された唐牛だったが、1979年(昭和53)年1月、99年の波瀾万丈の生涯を現役のまま終えた。
2代目は葛西清美が86(昭和61)年まで務め、後に「みちのく銀行中興の祖」と称えられる大道寺小三郎が、3代目頭取として61歳で就任した。
以降、会長職を含め2005年までの19年間にわたりトップの座に君臨するのである。その間、県庁職員の給与振り込み獲得作戦などが功を奏して、預金量では永遠に越せないと目されていた青森銀行を抜き、低迷していた株価も上がり飛躍的に業績を伸ばしていった。 通常、第一地方銀行に分類される青森銀行は、昭和22年に全国地方銀行協会が発足した時点で業績は飛躍的に伸びていった。対して、平成4年の相互銀行廃止にともない相互銀行から普通銀行に転換したのが第二地方銀行とされ、平成22年4月時点では、第一が64、第二は43行。みちのく銀行は、すでに16年前にその地位を自ら獲得し、第一に追いつけ追い越せと勢いづいていた。
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