大道寺小三郎伝
目次
1.ふたりのロシア
  鉛色の雲間から
  センター長が挨拶
  S支店長に番が回ってきた
  1927(昭和2)年2月
2.北の大地
  大道寺小三郎の父
  函館市で診療所開設
  ロシア人の親切
  小学生時代
  旧制函中時代
3.動乱
  ミッドウェー海戦以降
  高校1年生の初冬
  昭和20年の敗戦
  自治会活動
4.彷惶
  戦争の傷跡
  司法試験
  北洋博覧会
  洞爺丸
  高田屋嘉兵衛
5.種をまく人
  弘前相互銀行
  物上代位
  みちのく銀行誕生
  極東ロシア〜死去
 
5.種をまく人  弘前相互銀行
1959(昭和34)年 1959年 大道寺小三郎の結婚式での唐牛敏世と、母の大道寺志げ
( 弘前相互銀行倶楽部/現・藤田記念庭園)
大道寺小三郎にとっては、気のすすまないまま弘前相互銀行の管理課に配属されて8カ月が過ぎようとしていた。
同銀行は前身であった「弘前無尽会社」のときに、東北地方で初のエレベーターを備えた「かくは宮川デパート」のある一番町の坂を上りきったところに、昭和元年、鉄筋コンクリート3階建のビルを構えた。いまも当時のまま、弘前市に現存する最古の鉄筋コンクリートの商業ビルとして使われている。しかし、戦後は相互銀行となって業務の拡大につれ、すぐにスペースが足りなくなり、同ビルからほど近い下土手町の「角み小路」に曲がる角にあった呉服屋を買い取って、1階を本店営業部、2階に管理課と検査課を置いた。
管理課は課長以下12人体制で、主な業務は不良債権の管理回収である。当時の相互銀行は、旧国立系の普通銀行が貸せないような信用力の低い取引先が多く、競売、差し押さえなどの法的措置、またはそれらにともなう各支店に対する管理回収の指導、監督、命令など多忙を極めていた。
社長であった唐牛敏世は、1879(明治12)年、黒石藩(弘前藩の分藩)の家老職を務めた家系に生まれた。地元での教員生活に飽きたらず、東京の明治法律専門学校(現・明治大学)に進むが、その後は東京から北海道へと放浪した。その間、コンブの等級を決める仕事に就いて、静内の漁業組合にいた時期に大道寺小市と知り合ったのである。
田舎町ゆえ、教養のある唐牛は小市の話し相手として気に入られ、ほぼ毎晩のように夕食を共にするような間柄になった。
その唐牛が静内から忽然と姿を消し、小市と再会するのは10年ほど経ってからの昭和3年のことであった。唐牛はその間、函館の水産業者を拠点に、ニシン漁の仕込みに必要な資金を融通し、漁が終わると金利分を乗せて回収する仕事に携わったり、商人宿を経営したりしたがどれも成功を見なかった。失意のどん底に喘いでいたあるとき、弘前へ行く機会があり、そこで「無尽」という金貸しの話を聞く。何十人かのグループで月々少額のお金を積み立て、ある程度貯まったらそのお金を欲しい人が借りる。借りた人は、利息相当分を加えて返し終わるまで払うというシステムだ。十分な資金力がなくとも、このやり方なら、自らの人脈や才覚で商うことができると確信した唐牛は、さっそく設立準備を行い、幼なじみで代議士の支援などによって、1924(大正13)年に弘前無尽会社を設立した。
庶民の唯一の金融機関として、見る見るうちに急速な発展を遂げ、支配人、取締役、専務を経て40(昭和15)年に社長に就任。戦後は相互銀行法施行にともない、1951(昭和26)年に弘前相互銀行に転換しそのまま社長職に就いた。ときすでに79歳をむかえており、その後、1976(昭和51)年に青森市に本店のあった青和銀行との合併により、普通銀行へと転換した「みちのく銀行」の初代頭取に就任した時点では97歳。現役の頭取最高齢として各界から注目を浴びることになる。
再会は偶然だった。父、小市がスイス留学から帰国後、生家のある山形へ報告へ行く途中の奥羽本線の車中であった。そしてまもなく、不義理の詫びにと津軽塗の小さなテーブルが贈られてきた。
「400円が10年経って4円くらいのテーブルになった」 母、志げはそう言って揶揄したと、後年、大道寺小三郎の回想録に記されている。
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