大道寺小三郎伝
目次
1.ふたりのロシア
  鉛色の雲間から
  センター長が挨拶
  S支店長に番が回ってきた
  1927(昭和2)年2月
2.北の大地
  大道寺小三郎の父
  函館市で診療所開設
  ロシア人の親切
  小学生時代
  旧制函中時代
3.動乱
  ミッドウェー海戦以降
  高校1年生の初冬
  昭和20年の敗戦
  自治会活動
4.彷惶
  戦争の傷跡
  司法試験
  北洋博覧会
  洞爺丸
  高田屋嘉兵衛
5.種をまく人
  弘前相互銀行
  物上代位
  みちのく銀行誕生
  極東ロシア〜死去
 
2.北の大地 大道寺小三郎の父
開業まもないころの小市(30歳)と志げ(26歳)
大道寺小三郎の父、小市はより先進的な医療の実践にはドイツ留学の必要性を痛感していた。
明治以降、日本の近代化はドイツやフランスを中心としたヨーロッパに倣っていた。
医学界では牛の天然痘を利用し世界初の「ワクチン」を開発したのがイギリスのエドワード・ジェンナーであり、次いでドイツのローベルト・コッホはのちに「コッホの条件」といわれる細菌学の科学的法則を確立した。また彼の弟子ベーリングはジフテリアを研究し、モルモットの実験から免疫を作る抗体の存在を証明した。ジェンナー、コッホとも田舎町の名もない開業医だった。
小市は、現在の山形県長井市五十川にあった農家の4男として1883(明治16)年に生まれた。父は山形市の西隣にある山辺町の医者、多田善六の次男で大道寺家へ婿養子となった。大道寺家は長男が継ぎ、小市は祖父と同じ医学の道を志したのである。  東京慈恵医科大学の創始者である高木兼寛のもとで修行し、高浜虚子、岩波茂雄など著名な文化人の代診を行っていた。やがて同郷で小学校の教諭をしていた4歳年下の桑島シゲと結婚。東京神田に居を構えたが、1913(大正2)年、三崎町から出た火の手は神田一帯に拡がり大火となって小市は住居を焼失した。
それを機に、小市は北海道の無医村であった東静内(現・新ひだか町)で働こうと決意した。シゲは結婚後に名を志げとあらため、そのときには初めての子を宿していた。
上野から東北本線で終着駅の青森までは約26時間半、桟橋から艀と呼ばれた小舟で連絡船に乗り、函館を経由して日高地方の春立海岸に上陸するまでには丸2日を要した。
医院は平屋の木造住宅を改造したようなつくりで、山奥の部落への往診のための馬小屋があり、薬局は志げが担当するという北の大地での共働き生活がはじまった。
スイスで撮った写真(小市・44歳)
まもなく長女の静子が誕生し、翌年には長男の小太郎が生まれた。次いで次女の節子、次男の小次郎、3女の由利子と女と男の子が交互に生まれそれぞれに子守を付けて育てた。
1924(大正13)年には北海道庁の委託で静内郡静内村へ移り、本格的な医療に取り組んだ。自らが経営する病院のほかに、別棟としてあったアイヌ民族の病院の院長も兼ね、入浴など衛生的生活の指導にもあたった。
ベルン大学・医学博士号証書(1927年11月)
翌25(大正14)年5月1日、3男として静内に生を受けたのが大道寺小三郎である。 当初、ドイツ留学を希望していた小市だったが、第一次世界大戦(1914〜18)の敗北の影響でドイツの混乱がつづいていた状況下、行き先をスイスの首都にあるベルン大学へと変更した。出発前、また新たに子どもが生まれることがわかり、あらかじめ男子だったら小四郎、女子だったら洋行にちなんで洋子と名付けるように決めてから旅立った。
約1年半にわたったベルン留学時代。
下宿の窓から小市が撮った朝の街並み。
中央に牛乳配達が見える。
8月29日には小三郎と、2歳離れた4女の洋子が誕生した。
次男の小次郎とは7歳、3女の由利子とは4歳離れた小三郎は、生まれたときから年の近い妹の洋子にべったりとくっついていた。
「ようこちゃん、どこから来たの?」
不思議でしょうがない小三郎は赤ちゃんになんども訊いた。
「ぼくは、テニスコートの木の根っこから生まれたんだよ」
 だれが教えたのか小三郎はそう思っていた。当時すでに診療所にテニスコートがあり、小市、志げを中心に看護婦やお手伝いさんも一緒に遊んだ。
帰国後はスイスで経験した氷上カーニバルを行い、参加者はピエロなどに変装してスケートを楽しむというじつに趣向を凝らした催しだった。また、往診用にと当時は非常に珍しい米国製自動車を購入し、長井から呼び寄せた沼澤余一という男が運転手として雇われた。
生活のすべてがヨーロッパからもたらされた先進的スタイルに変わり、自由な時が流れていた。
ある日、小三郎と洋子が静内川の河口付近の海岸に遊びにでかけたときだった。アイヌたちが水辺に足を浸しながら「ホーイ、ホイ」と繰り返し悲しそうな声を発し、半円を描くように回りながら死者を弔う儀式を行う場面に遭遇した。
ふたりは何をするにも一緒だったが、このもの悲しい光景は静内時代の想い出として胸中に深く刻まれたのである。
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